北九州市立大学同窓会

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平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

「中国での女優としての活躍談議」  
               女優 松峰 莉璃(H13・外国語学部中国語学科卒)
※画像はクリックで大きくなります。
1  始めまして、松峰莉璃と申します。
 北九大の外語学部、中国語専攻を卒業しまして、その後北京の中央戯劇学院という演劇専門に学べる大学に通いました。
 そこでは大学院に通ったのですが、その時のお話や、又その後、日中の演劇交流をなさっている方々との出会いをお話させていただきたいと思います。
 聞くところによると、中国と日本はあまり関係がよくないと聞いていましたので、ずっと中国に住んでいますとあまり日本でどういう報道をされているのかというのを聞くことが無いのです。
 今回、ここに呼んでいただくことになりまして、大体どういった年齢層の方がどれくらい、いらっしゃるのかとお聞きしたのですが、というのも、やっぱり、日中関係と言うのは直接、歴史、戦争問題につながっていきますので、私のような若輩者がいったい何を語れるだろうとずっと考えて、でも演劇のこととか、女優業のことを話してくださいとおっしゃって頂いたので、そのことを考えて、でもやっぱり私が女優業をするイコール歴史問題に直結するので、どうしようと言うことで、実はつい3日前まで、かなり悩んでいまして、レジュメを皆さんにお配りしているのですが、これを書かせていただいたのも一週間前くらいでした。
 まず、中国の演芸について皆様がどの程度、ご理解があるのかと言うのもわかりませんし、日本の演劇についてご理解があるのか興味がおありになるかということまったくわかりませんでしたので、実は大変悩んでおりました。
 北京に住んでおりますが、私の周りには芸能関係者が多いのでお話しをするにも基本的なことを省いて難しい話をしたりますので、なるべく皆様のお顔を拝見すると、わたしのほうが教えていただきたいと思うことがたくさんありますので、お互いに行き来、できるようなお話ができたらいいなと思います。
 一応テーマはえらそうに「中国に降り立った日本人女優」と書かせていただいたのですが、それは本当に、たまたま考えが、まとまった先にこのテーマが先に浮んだという。
 日中の演劇交流をお話させていただく中で、実はものすごい歴史があって、100年も続いているのです。日中の演劇交流とは中国の演劇のことは「話劇」中国語では「フォアチュ」と言うのですが、話す劇と言う風に書きます。日本で何処の分野に相当するかと言うと「新劇」です。
 この新劇が中国に渡ったのも、最初は中国から日本に来ていた留学生たちが東京で新劇のお芝居を見て、これだということで、最初は東京で上演何回か行われたらしいのですが。「春柳社」といって、これは私の教授である板谷先生の専門分野なので詳しいお話は聴講生となって演劇の授業を聞いていただきたいのですが。
 春柳社と言うグループを作ってお芝居をはじめたのが最初だといわれています。
 その春柳社のメンバーというのは、やはり当時日本に留学できる人達ですので、ある程度経済的に裕福な人達か、もしくは学力のすごい高い人で奨学金を取って日本にいらした方かということで、やはり社会的にもある程度影響力のある方々だったと思うのです。その方々が中国に戻りちょうど辛亥革命の後に日本から中国に戻り演劇を始めたというのが大まかな流れです。詳しいことは板谷先生の演劇研究の聴講生として聞いてください。
 その辺の流れは面白いくらい日本とつながりがあるのだということがわかります。
 私たちが劇場で見ているお芝居と言うのはいろいろありますよね。新劇、ミュージカル、歌舞伎、伝統劇いろいろある中で新劇の分野をお話させていただくのですが、新劇と言うのはもともと新派、と言う演劇に興味のある方はご存知だと思いますが、若い方のためにちょっとご説明させていただきます。
 新派と言う演劇のスタイルがあったのですが、この新派劇から新劇に移動するという流れになっています。新派と言うのはどういうものかと言うと歌舞伎、伝統劇、と新劇。 私たちのよく目にする新劇の中間にあるようなもので、みえを切ったり歌舞伎のように、全員男性だったり、と言うようなものをある程度受け継いでいるのが新派劇で、それがもうちょっと現代的に生活身を帯びたという風になったのが、私たちが今よく見ている新劇と言うお芝居になります。
 中国も同じように最初は新派から新劇に移行する、話を聞くと韓国もそうだったらしいのですがやはり日本から演劇が輸出されて、演劇が広まっていった。
 中国の場合はその中で数名有名な劇作家、俳優とかが出てくるのですが、その流れをずっと組んで、できたのが北京人民芸術劇員という、中国で一番大きな劇団とその下の中央戯劇学院という私がその後通わせていただいた演劇の学校があります。
 この演劇の学校に私が最初に留学をしたのですが、あまりの演技力の差に圧倒されまして、最後の私の経歴紹介のときにお話させていただこうかと思っているのですが、かなわないと思わされました。
 同じ年齢ぐらいの大学生、年齢的にほとんど代わらない人達がやっているのですが、私のいたクラスには今、日本でも有名だと思うのですがチャンツーイと言う女優さんがいたり、あのクラスでは中国でも今トップクラスの役者になった人達が一杯いて頭も賢いですし、演技もとてもとても上手で、というような自分が通ったところなのでへんな言い方なのですが要はエリートの演劇学校です。そこが結局じゃあ昔は何のためにそういう学校を作り劇団を作ったか、日本もそうだったと思うのですが、要はプロバカンダ、と言う宣伝。
 政治の思想を伝えるために劇団を使って役者を使ってお芝居を見せた。中国は特にそうなのですが文盲率が非常に高く、日本のように義務教育があるのですが学校に通える人達、学校で文字を習える人達と言うのがあまりまだ田舎のほうに行くと多くなく、漢字ですから、お手紙をやり取りすると間違った漢字でお手紙を下さる方もいるのですが、それに方言が多い、日本人の想像を絶するくらい方言なのです。ですからそういう方たちに教科書や文字を使って授業をして自分たちの思想を訴えるのとお芝居を見せるのではどちらが早いか。要はそれだけと思うのですが。中国は共産主義国、社会主義国、一党独裁といっていいのかわからないのですが。日本のように民主国家ではありませんので、思想を伝えて教育をしていくというのは中国の方たちにはとても大事なことです。ですから演劇などを通して後はバレエも革命、文革の時期なんかに残っているバレエもすごいです。思想抜きで考えるととてもすばらしい、よくもこれだけ、とバレエと言うと西洋のものだと思うじゃないですか、私も習っていたのですが、それが完全に中国化されたでもバレエの技術はそこにちゃんと残っていて、革命バレエと言うのですが皆人民服を着て踊るのです。技術だけ見るととてもすばらしい高レベルなこと中国でやっています。
 私も今日初めて皆さんと始めてお会いしたのでなかなか皆さんが中国に対してどういうお考えをお持ちかわからないですし、逆に私は10年位中国にいるので、もしかしたら私はもう日本人ぽくない考え方が、もしかしたらお話している中で皆さんの考え方と違う部分が出てくるかも知れないのですが、それは是非このグローバル化の時代の中でこういう考え方もあるのだなと言う風に思っていただければと思います。
 決して私は共産党崇拝者でもありませんし、逆に民主主義者と言うわけでもないのですが、その両方のいいところを見てきたという自負はあります。


 お話を戻して写真を見ていただいたほうが早いと思うのですが、春柳社でこれが中国の演劇を始めた方たちで、場所は日本です。
 これは、奥の左側スカートをはいていますが男性です。日本とまったく同じスタイルでやっていたそうです。この春柳社にすごく影響を与えたのが日本の新派劇の俳優さんだったり、演出家の方だったりするのですが、板谷先生のお話によりますと、この須藤さんと言う方がその当時演出を担当した新派の俳優さんです。
 新派ですので、日本でさっき新派劇と言うと歌舞伎の要素すごく取り込んだということを申し上げたのですが、その中に歌舞伎の俳優さんも入っていたのです。それと同時に今度は女優を使うようになり歌舞伎の俳優さんで女形なさる方と、普通の女性が同時に舞台に立っていたと。いったいどんな舞台なのだろうと、私は想像がつかないのですが、舞台の面白さと言うのは、仮定性と言うのですか、本当であり、うそでありと言うような舞台の上での、逆に想像力かきたてられたかもしれないと思います。
 日本の新派の話をさせていただくと、ご存知の方多いかもしれませんが、川上音二郎という方ご存知でしょうか。オッペケペー節で一躍有名になった。この方は福岡の方で、私も福岡市内の出身なので、よく知らないうちはあの銅像は何なのだろうと思っていたのですが。
 中洲川端商店街の前に川上音二郎の銅像があるのですが、この方すごく九州の方だなと、この方の履歴を読んでいくと、福岡でなかなかなじめず、大阪に出て演劇に触れ自分もこれだと演劇を始めるのですが、まったく基礎も経験も無く始めたらしい。さすが九州人、福岡の人と思うのですが、そのままやってしまえ、最後は海外公演までなさったそうです。私はそういう人好きなので同じ福岡の人でよかったと思います。そのときにすごく川上音二郎さんを支えたのが奥さんの芸者さんの貞奴さん、きれいな方で。もともと芸者さんで歌も踊りもおできになったと思うのですが。最終的に海外の公演に行ったときはシェークスピア劇をした。すごいこと海外に経験が無い人が、シェークスピア、まるで日本に来てどなたかが歌舞伎のお芝居を外国の方がやるくらいの勇気だと思うのですが、シェークスピア劇を海外に持っていって、ものすごいブーイングだったらしい、そこでしょうがないのでいってくれ貞奴、と言うことで貞奴が一人舞台を演じたぶん芸者さんなので、歌を歌ったり日本舞踊を踊られたりし、日本人だと。最後は好評を博したと私が読んだ資料に書いてあったのですが、貞奴さんが好評を博したのだと。福岡人ですよねこの河上音二郎。
 中国の方も想像するとあの時期は混沌としていたはずなので、辛亥革命が起こる前夜、もしくは起こった後、そして2011年、来年は辛亥革命100周年なのです、五四運動からの流れで辛亥革命が起こったであろうと言うことで、中国その時期に近代化の革命がおこるのです。皆さんご存知のとおり盧循(ろじゅん)もともと白亜運動。古文のような文章書いていたものを今自分たちが使っている言葉で本を書いたりしようと、想像なかなかつかないと思うのですが、大学生の皆さんにちょっと想像していただくと、受験前に古文の授業で、すごく苦労したと思うのですが、あれを手紙が送られてくるのと、今こうやって私がしゃべっている言葉で手紙が送られてくるのは、えらい違いだと思うのです。
 そういう革命が起こり、そうすることによりなにがいいのかというと、ある程度の人達に文化がもたらせると、意味がわかりますが?
 言葉ってやはり大事なのです。お芝居もそうなのですが、どういう風に伝えるかということを、作家であり役者であり演出家であり、カメラマンもそうなのですが、皆考えるのです。
 いかに一人ひとりの耳に自分の言葉を届けるかと言うことを考えるときに、この革命と言うのはとても大きかったと思います。古文で与えられて最初の言葉だけを見てもうだめだと、閉じてしまう人が多かった中で、少し読めると、先を読んでみようという人が増えたという、言ってしまえば簡単なのですが、それはとても大きな革命が五四運動で行われ、その影響で起こったのが辛亥革命です。
 帝国主義、植民地の状態であった中国から脱却しようというような動きなのですが、政治と芸能、芸術はすごく密接に実は絡まっているということを皆さんにご理解いただけたらと思います。
 この春柳社のメンバーたちは中国に辛亥革命の後に戻ります。中国に戻って最初に降り立った地点というのが南のほうなのです。上海などを拠点に南のほうをずっと巡演して回ったそうです。
 この巡演している内容だとかはちょっと難しくなりすぎますので、その当時の状況を考えていただければ、おそらく未開の地のようなところを、あちこち回っていたのではないかとおもいます。こうやってお話させていただくのは、その後お話させていただく事の前触れ、関係があるのですが。
 その後、話は飛びますがこの時代は1910年から1920年なのですが1960年に話を飛びたいと思います。日本では1950年代ぐらいから、訪中団という東京などで演劇などの活動をしている劇団が、5劇団集まって日本の新劇人を代表するグループを作って、それから今度は中国に訪中演劇ツアーを行うのですが、そのとき最初にいらした方というのがレジュメにも書いていますけれど、杉村春子さんです。
 この辺になると皆さんお分かりになると思うのですが、杉村春子さんは皆さん映画とかですかね、新劇界をしょってたつ女優の一人、何年か前に杉村春子さんのドラマがあったということで、ご覧になった方いらっしゃらないですか?
 すごいですね女優ってこうなのだと私は驚かされましたけれど。
 もともと広島のご出身で、裕福な家庭でお生まれになったと、ご自身も思っていたらしいのですが、実は広島の芸者さんが生んだ私生児だったということだったのです。ご本人もそれを知らずに、広島で生活なさっていたそうなのですが、自分が養子であったことを知って、そういう葛藤があり、でそこで東京から、その演劇団が巡演してきたところでお芝居を見て、もともと芸者小屋で育ったとご本人の本の中にも書いてあったのですが、もともと、そういうもの見る機会が多かった方だと思うのですが。その影響で自分も東京に行くと、東京にひとりで乗り込んでいかれたそうです。
 皆さん大体北九州の出身だと思うのですが、私は福岡市なのですが、杉村さんの本を読ませていただいている中で、私がすごく共感できたと言うのが方言ですね。なかなか直らないのです。私が最初に方言だと気づいたのが、これが方言だったのだと気づいたのが北京です。北京に行ったときに、やはり同じように留学している方たちが、関東とか北海道のかたとか関西もいますし、話をしている中で、やっぱり九州だよねといわれて、えっ私、標準語はなしているのに、えっ違うんだと。私たちの世代でそのくらい違うので、おそらく杉村さんの時代では外国語くらいの違いと思います。本にも買いてあったのですが、最初の2.3年間東京に出てすぐ劇団に入るのですが、まったく舞台に立たせてもらえなかったという風に書いてありました。
 なまりがひどいからと、はっきり言われてしまったと。それくらい当時の言葉の差と言うのが違ったのだと、私も北京にいって初めて日本語がおかしいということが分かったので、すごく共感するものがありました。
 そこから杉村さんは、今度は文学座と言う劇団に入り、最終的にはそこで看板女優、と言う風になるのですけれど。当時の日本の演劇、絶対そうですといえないのですが、たぶん政治の影響受けていたはずなのです。本を読ませていただくと、もらった台本が検閲で引っかかって全部墨が塗られていたとか、これでどうやってお芝居できるのだということ書いてありましたので、やはり先ほど申し上げたとおりプロパガンダの意味としての物、もしくは、政治を批判してはいけないという様なルールがたぶんにあったのだろうということが想像にたやすいというか、それは今の中国でも同じことがおこなわれています。なので、むしろおそらく今日本中で検閲なんかに敏感なのは私だと思うのですが。日本って自由になったのだなと思いました。
 その後、杉村さんは先ほど申し上げたとおり1950年代に中国、ヨーロッパを見て回るツアー、アジア文化交流団と言う団体に参加なさって、ヨーロッパからずっとあちこち交流をなさっていたらしいのです。最後に中国に入っていらして、そのときに中国の演劇人と交流をし、かえん【夏衍】、板谷先生のご専門なのですが、かえん【夏衍】。このかえん【夏衍】という方は中国で有名な劇作家や評論家がいらっしゃるのですが、そのかえん【夏衍】さんとお会いになって、戦争が終わって間もない頃なのですが、日本と中国、一番関係が悪い、国交回復していない時期です。この時期、何かできないかとかえん【夏衍】さんに直訴なさった。
 私たちが演劇人としてできることがあれば参りますということで、そこで話がスタートしたという風に本は書いてあったのですが、それから4年の月日を費やし、新劇人訪中団と言うグループが組織され、70人で中国に入っていかれたということです。1960年、65年、後文革の後の1980年代の三回に分けて演劇のツアーが行われたということなのですが。
 1960年の中国と言うとどういうところだったか想像つきますか?
 私が頼りにしたこの本を森光子さんの言葉を読ませていただきます。
 「森光子は杉村から何度か旅に誘われたことがある。先生は中国がお好きでいらしたのですが、私にはちょっと。お好きなところは文化発するところ、2000段も石段を登らないといけないような山の上にホテルを取ったりする。大都会でもアメリカ資本のホテルには泊まらない。中国式のホテルがお好きでお手洗いが壺でも平気でいらっしゃる。栓をしてもお湯がたまらずに、漏れちゃってタオルか何かを巻いてやっとお湯をためたというのです。何年かしていったらそのままだったらしいのですけれど、先生はまた布を巻いて栓をしたの。懐かしかったわと喜んでいらした。中国だけでなくブータンにもおいででした。お連れしたいわとおっしゃってくださった。でも現地でのお芝居を見に行ったら宿泊しているところから徒歩で一時間、それも砂漠のようなところずっと歩いていくというのです。お話を聞いて魅力を感じましたよ。でもそこに行くまでは先生にはとてもかなわないと思いました。」と森光子さんが書いているのですが。今の日本人にはとても想像のつかないようなことを70人は見て歩くのです。旅だったらいいと思うのです。私も北京に住んでいて、北京は今だいぶ便利になりました。先ほど森光子さんの言葉にもありましたように、外資系のホテルもありますし、レストランもありますし、お金さえ出せば今おそらく北京の生活費はあっという間に日本、特に福岡超えたと思いますし。それくらいの発展を見せているのですが。ちょっと離れると、トイレに行きたいですというと、とんでもないところに連れて行かれる。それこそ壺じゃないですけれど、ここでといわれて何処?と探さないといけないような所が今の21世紀でもあるので、それから考えるとこの1960年代に大女優たちが、いったいどんなところを回ったんだという風に思うと、すごい度胸と言うか好奇心のおおせいさと言うかやはり只者ではなかったんだろうと思います。 
 中国の歴史をご存じない方が、もしかしたらいらっしゃるかもしれないのですが。1960年代になると中国は文化大革命といって1966年から始まるのですが、一切のその文化的なものを廃止する時代が、古代で言うと焚書です。文明的なものは全て焼き払ってしまえと、いうことが行われます。それが10年続くのです。私が中国にいると、とても感じるのですが、今儒教を実践しているのは日本と韓国ぐらいではないかと思うくらい、上を立てましょうとか、年配の方を敬いましょう。とかいうような思想と言うのが身にしみて育ってきた民族国民というのはあまり中国ではちょっとみあたらないと思うのですが、それくらい文化大革命の影響が大きかったという風に考えていいと思うのです。
 今ちょうど60台くらいの人達というのは、まあ私の親位の世代ですが、その世代が今ちょうど文化大革命の頃子供の世代だった、その子供が育ち私くらいの年齢の子供を育て、今私の年齢くらいで2歳とか3歳の子供がいますので、その代々培われてきているものが、今もう三代目くらいになっているのですが。
 ちょうど杉村春子さんたちが中国に入ったときと言うのが、それが始まる直前だったと思っていただければいいと思います。文革の話興味がある方いらっしゃると思いますが、そのときに演劇も劇作家、学校の先生、お医者さん、迫害ですね。罵倒されます。もしお時間があれば中国の「活きる」という中国の映画、黒澤監督と同じ名前ですけれど。「活きる」と言う映画を見ていただくと大体どういう歴史だったかわかると思います。お医者さんがいなくなってしまう、10年間を想像していただくとどういう状況だったのかと少しわかるかと思うのですけれど、それを経て今度は70年代80年代、と言う風にはいって行って中国は、改革開放、市場経済の導入、と言う風になり。富める人から先に富むべし、と言うことで中国は広いのです。海岸都市から市場経済を導入していくのです。そうすると、どんどん格差がつきます。共産主義国とはいえ今社会主義国といっていますけれど、私は日本に来て思うのは共産主義が実現していると思ったりします。と言うのは中国の貧富の差の激しさを考えると、日本に来て医療保険が充実しているとか、就職難だ就職難だといっても皆さんある程度お金を稼いでいる。正直にいうと私、車で家の近く走るとハローワークがあるのですね。福岡の3号線沿いにあるのですが、車がそこにちょっと渋滞していて、なんでこんなところ渋滞しているのかと思うと、ハローワークで、その入り口が車で駐車場に入ろうとしている人達の車で渋滞していて、失業者の方車運転できるのだ、私ずっと中国にいるので、すごい日本。とか思って。日本って、やはり豊かな国ですよね。なんだかんだといって。物にあふれていますし感じたりしています。
3  60年代に戻すと、中国はそれまで皆平等と言うのをどうやったら実現できるか、じゃ皆平等と言うのは何かと言うと、自分が月に2万円稼いでいるの知っていますから。と言うことは皆さんも2万円なのです。

 と言うのが共産主義、社会主義の考え方で、公務員宿舎みたいな形で住むところも配給されていましたし以前は、あまり働かなくても2万円、働いても働いても2万円なのです。と言う生活の仕方、今の中国の働いた分だけお金が稼げるようになった。その差というのですか、おかねのある人はもっと増やそう、もっと増やそうとしていきますよね。中国独特の社会主義、独特と言う括弧がきがつくのですが。
 今その方針をとっているのが現在の中国なのです。それから比べると日本は平等だなと。気持ちが楽になります。そのくらい差を知った上でお話を進めて生きたいと思います。
 演劇の話を戻しますと、そこで杉村さんたち一行は中国の北京首都劇院と言うところで、北京の目抜き通り、ワンフウジンと言うものすごく大きなとおりがあって、天安門広場からすぐそばなのですけれど、そこに建っているロシア風の建物でとても立派な歴史のある劇場がありますが、ここで杉村さんたちが、最初に舞台を上演なさったそうなのです。上演した演目は木下順二さん・「夕づる」など数本あったそうです。
 杉村さんといえば「女の一生」「選んで歩いた道だもの。」とあの有名な台詞の舞台なのですが。女の一生もやはり話を随分変えて上演されたそうです。首都劇場と言うのは中国の北京のかたなんかがいらっしゃる、いったことのある方は、ああと、日本には相当するものがあまり無いのですが、私の通った中央戯劇学院などからそこから年に1人とか2人とか、多くて5人くらい俳優だとかそれぞれのスタッフだとかになるのですが、「大地の子」というのがNHKで随分昔にあったのご覧になったことありますか?
 そこで主人公の陸一心さんですかね、拾って育てた、お父さん、お母さんがいましたよね。お二人ともここの劇団の方で今でもご健在で。この朱旭さん、シュキョク(チュウ・シュイ)と中国語ではお名前お呼びするのですが、こちらの所属の俳優さんで、実は去年まで舞台に立っていらして、大劇場で舞台に立ってマイクなしで、お芝居をなさるのです。この劇団のすごいところはマイクなしで音は拾うのですが、だからそれなりの声量のある人達でないと無理。大劇場は1000人お客さんが入る劇場です。そこで杉村春子先生も70人のメンバー引き連れて「夕鶴」「女の一生」レジュメにも書いていたのですが「ブンナよ木からおりてこい」とかそういった作品が上演されたそうです。
 この時期、日本語で上演すると中国のお客さんにはわからないですよね。言葉が、でどうしたかと言うと中国の方も中国を代表する劇団ですから、そこの役者さんを使って同時通訳をしたそうなのです。今でこそ国際会議の同時通訳皆さんイヤホンつけて各国の人達が言葉を聞けるようにと言う風にしていますけれど、それを実践したそうなのです。
 日本からイヤホンを全部購入して中国が、日本の俳優さんが舞台で上演しているのを全部中国語にまずお稽古の時点で全部訳して、言葉、長さも全部中国語に日本語の長さに合うように中国語を、長さを調整して、中国語のほうが短いのです速く言えちゃうのです。私も字幕の翻訳なんかさせて頂くのですが、日本人がしゃべっている言葉よりも中国語のほう、ちょっと増やさないといけないとか、もしくは中国語のドラマとか映画とかだと日本語の字幕はものすごくカットしているのです。言いたいことだけを言い合っているような。いろんな、本当はそれをつけているとその人のキャラクターがわかるんだけどなと言うの、いろいろつけているもの残念ながらカットして字幕をつけるのですが。それをここで実践して、ものすごく贅沢ですよね。
 目の前に杉村春子さんとかがお芝居して、日本語で聞けて、朱旭さんのような味のある俳優さんたちがイヤホンで長さを調整しながら同時にしゃべってくれて、日本語が終わると同時に中国語が終わるようにしていたのです。さすがですね。日本のトップクラスの俳優と、中国のトップクラスの俳優がそういう意味でコラボレーションした。こういうことが1960年代に行われていたというのが今の私たちにとっては負けているなと。今、どうあがいても字幕しかつけないのです。
 字幕は右か左かに片方にしかつけないのです。たとえばこちらに字幕があって、ここに日本語が書かれているときに俳優さんたちが向こうでお芝居していたら、どっち見たらいいかわからない。表情も見たいし動きも見たいけどなんていっているかわからないから字幕を見なきゃとなったときに不親切だったなと、講義のためにいろいろ勉強させていただく中で感じました。なので反省しています。
 それくらいの試みが1960年代におこなわれていて、やはりお客さんにとても親切な舞台を上演していたのだなと私はすごく感じました。
 なぜ私が杉村春子さんのことをこれほど勉強させていただくようになったかと言うと、このレジュメの次に書かれている伊藤巴子さんとの出会いで、伊藤さんは実は私の教授である板谷先生ご夫妻から紹介していただいたのですが、日本と中国の演劇人と言うのはお話させていただいているように、ずっと交流が続いています。「話劇人社」と言うNPOの組織がありまして、このNPOの組織の今理事長をなさっている方で年齢的には80歳、現役の女優さんなのですが。さっき申し上げたように60年代に訪中団、最初に杉村さんの、女優さんなのですけれどお手伝い、お付としてお世話係として中国に最初に入ってきた70人のうちのお一人です。
 ちなみに紹介させていただきますと、劉徳有さんは毛沢東、周恩来の日本語の通訳をなさっていた方で大連の出身なのですが、その後、中国で言う文部科学省の副部長までなさった方です。若い頃に各国の要人が中国にいらしたときに、日本の方が日本の首相だとかであれば劉徳有さんが通訳に行った。この劉特有さんは、中国人だと聞かなければわからないです。日本の方だろうとしか思えないくらいの流暢な日本語で、しかも育ちのいい日本のダンディなおじいさん。このお二人は要は50年来のお付き合いで、昔の女優さんたちなんて素敵なんだろうと思うのですが、天安門広場を伊藤さんが「私が歩いていますとね。とおっしゃるのです後ろから紺色の襟を立ててスーツを着て颯爽と歩く背の高い方が伊藤さんですかと声をかけてくださったんですよ。振り向くと劉徳有さんでね」と若い頃のお写真を見ると俳優さんではないかと思うくらい、背も180何センチかおありになりますし、すごくスタイルもいいしというような方なのです。
 やはりあの時代の俳優さんたち、ちょっと昔の映画なんか見ると女優さん普段もきれいで、立ち乱れた格好したことないのではないか、それこそトイレにも行かないのではないかと言うようなイメージを持つくらいの方で、80歳と自分でおっしゃるのですが、近くで拝見すると、お食事なんかも一緒にさせていただくのですが、きれいなのです。食べ方も動き方も、立ち振る舞いと言うか。いつもおこられてばかりなのですが。
 たまに、未だに2ヶ月に一回位北京にいらっしゃると通訳でお供をするのですが、この方が1960年代に最初に中国に訪中団で来たときに「夕鶴」なんかの舞台にお出になっているのですが、その後「竹取物語」のかぐや姫をなさった方で、未だに年配の北京の方に聞くと、ああ知っている。かぐや姫だと。やはり日本からきたお芝居だということと、日本を代表する作品を持ってきていらっしゃるので、影響力と言うのはすごくあったみたいで。
 その後私が中国の大学とか大学院で勉強している中で、私は演技科だったのですけれど、皆さんこういう授業が無く、だだっ広いところに自由に座って、先生の前でお芝居をすることが宿題の提出になるのです。そのときにテキストとして使っていた作品が、実は「女の一生」だったり「夕鶴」だったり「竹取物語」だったり「ブンナよ木からおりてこい」だったりしたので、今回この講義をさせていただくに当たり、なんて事をさせていただいたのだろうと。中国語に訳したものはテキストとして未だに使われているのです。
 ちょっと一つその後いろんな方とお話していく中で、ちょっと残念だと思うようになったのは、最近の日本のお芝居がなかなか向こうでそういう形で残らないことです。たぶんとても商業的になりすぎているという風に、中国の方思ってしまうかもしれないのですが、逆に、もうちょっと交流が深ければ、いい作品がお互いに行き来するのではないかと。ちょっとそこは残念だなと思うところです。
 ここが中央戯劇学院という小さな学校です。北九大のほうが大きいですね。
 ほんとに小さな学校で、最初に私が中国を訪れたとき100人ちょっと200人行かないくらいで、というのは、学校は演技科、演出科、舞台美術科、戯劇文学科、といって劇作家を養成するコース。この4つしかなくてそれぞれに1クラス10人ちょっと位しかとらないので、4学年合わせてもそのくらいです。なので私のような留学生も皆さんすごくかわいがってくれて、その中でずうずうしくも「ブンナよ木からおりてこい」だとか「女の一生」だとか、えらそうに日本のなんだってとかいっていたのです。全然知らずにいっていたのですが。
 先ほど申し上げたのですが中国の俳優とか演出科とか、たとえば照明とか、メイクは皆大卒なのです。この学校だとか他の大学、主に映画を教える学校もあるのですが、実はそう考えるとエリートだと思いませんか。中国の演劇人は、最低でも大卒なのだなと、留学して初めて知って、日本のように現場で覚えるということではなく、即戦力としてすぐ俳優デビューしちゃうところ、そういう国なのです。
 先ほど出てきた伊藤さんなのですが。伊藤さんと中国の演劇について話しますと、中国には中国児童演劇院という、おもに児童演劇を上演する劇団まであるのです。
 要は北京の子供たちが、お芝居を見に行くところ、先ほど紹介した首都劇場と書いているところは、それから比べると大人向けなのですが、児童演劇院と言うところにも、たくさん台本とか人材とか派遣されていて、おそらく中国の方々はしらないと思うのですが、中国の児童演劇院で大ヒットしている作品のいくつかは、伊藤さんが直接台本をこれいいですよと、どうですかと、北京に持っていかれたものがいくつかあって、私の学校でも、たまに北京児童劇院に送り込むための生徒を集めた養成クラスがあったりするのですが、そこの、作品、そこの卒業公演なんかに関して言うと、伊藤さんが実は数年前にもって来たの皆知らずにやっていたりすることがあります。
 実は福岡の劇団「道化」ですね。北京で公演を三人芝居をやったりしているのですが、中国の各地を廻るのです、日本語でやって中国人が言葉を中国語で合わせたり、今はもう中国人の俳優さんに中国語で訳したものを中国人が上演したりと言うことがあるようなのですが、その道化を中国に紹介したのも伊藤さんたちで、その頃から言うと50年以上中国に通い続けている方で、おそらくパスポートは中国とはんこが押してあるのではと思うのですが、今年ももう12月ですよねもう4回は北京にいっていらっしゃる方で。
 ちょっとだけ、演劇関係の方のために複雑な話をすると、そう‐ぐう【曹禺】.100周年という。そう‐ぐう【曹禺】.中国でトップクラスの劇作家がいらしたのですがその方の生誕100周年、と言うもようしが一年間を通してずっと行われたのです。その方の書いた作品を一年間ずっと上演したり、後はそう‐ぐう【曹禺】.を研究する人達の会議があったり、いう中で伊藤さんは北京にいらしていて、これをどうたとえていいのか難しいのですが、中国の中にも1960年代から、日本の訪中団と交流のある方たちさっき申し上げたように、同時通訳をしたことがあるのだという方たちがいて、もうほんとに80歳を超えた人達なのですが、その方たちは中国で、伝説になっていて。ようは森繁久弥さんみたいに名前は知っている。すごかったらしいというくらいの。その方々が中国も重鎮としていて、その会議にいらしていたのですが、唯一何百人いる中でわーと寄ってきて涙を出して抱き合ったのが伊藤さんだったのです。そのくらい、実は中国の演劇に力を注いでいた方で、日本ももちろん、いまだに、児童演劇をなさっているのですが、そういうことを、ずっと続けている方です。
 今でも今度はアジア全域を含めた演劇の発展を目指そうというグループがあって、そこの発起人の一人として参加なさるようですが。
 さっき言った首都劇場を基地として上演を続けているのが、北京人民芸術劇院、シュキョクさん大地の子のお父さんたちがいる劇団と、国家話劇院と言う今それが二大制御区でいるのですが、その国家話劇院の院長さんたちは、日本のお母さんといってすごく慕われて方で、残念なのは、ご本人のポリシーでその後余り映像作品にお出になっていらっしゃらないので、ご存知の方少ないのですが、杉村春子さんのお世話係として、中国に来て一緒にお芝居をしたというお話をお伺いしたのですが、そのとき3人お付がいたらしいのですが、一人は伊藤さん、お一人が吉行和子さんもう一人が家政婦は見たの。方で、3人がお付で舞台袖で懐中電灯で照らすとかお衣装をもったりと言うことをなさった。
 北京の大きな劇場で余りなれていないので懐中電灯で道を照らしていた、吉行和子さんが懐中電灯の光を杉村さんに向けてしまって、舞台袖でものすごく怒られて、吉行さんは泣いてないてもう中国に来たくないというような裏話を聞いて。考えてみたらその当時皆さん20台なのです。大先輩の杉村さんのお付でいらしていたということで、伊藤さんにも聞いたのですが、伊藤さん、その当時の中国はとんでもない環境だったと思うのですが、どうして来ようと思ったのですか。と聞いたら。伊藤さんは即答で、別にどんな場所でもよかったの、杉村さんがそんなに近い場所で一緒に旅ができるって言われたら行かないほうがそんでしょうと、それで三人の方はいらしていたと思うのですが、その後結局一番最後まで中国と交流を続けていらっしゃるのが伊藤さんで。
 考えてみたら吉行さんが泣いてないてというのもわからないことは無いです。つぼにトイレしてくださいとか、かやぶきの小屋みたいなところで待っていてくださいとか、バスを降りて、移動中の車の中でちょっとお手洗いにと言うとじゃあ止めます、そこで、といわれると泣きますよね。泣くこともしょうがないということを前提で考えていただくと、杉村さんと伊藤さんがどれだけ根性と言うか意志の強い方たちだったかわかると思います。
 60年間の交流を続けていらっしゃる女優さんと言うことでご紹介させていただきます。
 それから伏木さん、お話させていただくと、私はたまたまお会いしてお話させていただくことがあって、中国の児童演劇院でピアノを担当していたと、開拓団で満州国を建設するために、日本の村を挙げてその中国に移って東北の何も無いところ荒地を切り開いてすむところを作っていった人達がいるのですが、それで幼いときに中国に渡りそのまま中国の男性と結婚し、その後北京で生活したということで、私がお会いしたときには日本に40年中国に40年住んでましたと。この方は児童芸術劇院にピアニストとして入って、外国人が公務員になったものすごいことなのです。何をなさっていたのですかと聞くと、演劇を広めていくために、大都市以外の本当に小さな村にお芝居を持っていくと、4.5人で1グループを作ってあちこち廻ったらしいのですが、アコーディオンあれを担いで中国の俳優さんについて廻りましたと。ものすごいことをなさっていたのだと。本当にその当時、中国の中に入り込んで生活をしていたんだなと、今私が中国に入り込んで生活をしているのですがレベルからいうとぜんぜん違うなと。
 あと次に李香蘭さんお話を書かせていただいたのですが、一番ご存知なのが李香蘭さん、(山口淑子さん)李香蘭さん特殊ですよね。括弧がきでご紹介させていただこうかと思ったのですが、日本と中国の犠牲になった方ということをどこかで読んで、そうなんだなと思ったのですが。戦争とか政治の云々に関わらずやはり今こうやってご紹介させていただいた方というのは、場所を選ばなかったということだけにとどめていただきたい。今同じ職業についているものとしては思っていることがあって。と言うのがお客さんがいれば何処に行って演技をするのも同じなのです。やる側としては。 言葉がわからなければ字幕をつけたり同時通訳をつけたりすることもありますが、やはり演じることを職業とした以上。何処へいってもやるべきだろうと自然に思っていますので。
 おそらく山口淑子さんもそうだったのではないかと。別に私がスパイになりましょうとやったわけではないと思うのです。今中国では今完全に山口淑子さん李香蘭のことは封鎖されているのです。中国の方に李香蘭って知っていますかと聞いても知らないという方が多い。その当時同じくらい有名な俳優さんの名前はいくつも出てくるのですが、李香蘭さんはと聞くと知らないと。 そういうことで言うと私が女優として中国でやりたいことをやらせていただいているというのはいろんな規制がある中でもありがたいなと思っています。
 映像がありますので、お見せします。
 去年ドラマがあった時のお話。

4  こんな感じで、中国と日本の演劇の交流の歴史を皆さんにわかって頂けたと思います。私が今女優業を中国でさせていただけるのも、主役とか準主役を今いただくようになったのですが、日本でそういうことがあるかなと考えて、思えば中国のかたってやっぱり懐の広い方が多いなと言う風に感謝しております。

 できればさっきちょっとだけ申し上げたように日本と中国がもっと演劇を通して理解を深めあえればとなんかすごく当たり前なことなのですが思っています。
 留学を決めた理由:場所はここの地下の本屋さんだったのです。どうしてもあまりにも中国語学科にいたにもかかわらず中国語が全然できなかったのです。できないというよりしたくなかった。正直に言うと。ただ中国語学科を卒業したら中国語ができるものだと思われても困る、じゃあ自分で何か中国語ができるようにしなければならない。と思ったときに本当はお芝居だとかダンスとかがすごく好きで、どうしようどうしようと考えていたら、この下の本屋さんに留学関係の本があった。ぱらぱら見ていたら中国戯劇学院というのがあった。これだと思って。中国語もできる演技もできるということで。
 特に北九大、ものすごく自由な何でも受け入れてくれる。その当時バーテンダーやりたい。DJやりたい芸術家やりたいとか、週末にしか現れない競馬新聞を握っていた先輩とかいてやりたいことやるしかないと中で決めました。
 ありがとうございました。