北九州市立大学同窓会

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平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

「冬山遭難から俳優を経て国会議員へ」  
             衆議院議員 横光 克彦(S42.外国語学部米英学科.卒)
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 皆様こんにちは。ご紹介いただきました横光克彦でございます。
 昭和42年の北九州市立大学の卒業生でございます。42年というと1967年ですか、43年前になるわけですが、半世紀近く前、実はこの大学で学んだ一人でございます。
 今日の市民公開講座にお招きいただきまして本当にありがとうございます。

 私のようなものに講師ということで白羽の矢を立てていただきました山崎先生やまた同窓会長の山下先輩に心から感謝を申し上げます。  
 この北九大、今北九州市立大学でございますが、われわれは北九大と言う言葉がある意味では骨の髄までしみこんでいますので北九大といわせていただきますが、この北九大のOBでたくさん、それぞれの分野ですばらしい活躍をされている方々が多くいらっしゃる中で、私にお話をと言うご要請があったのも、それはおそらくちょっと変わった人生を歩んでいる人間として、声がかかったのではなかろうかと。
 あまり偉そうなことはお話しすることができませんけれど、私が大学を出て俳優の世界を目指してその後、政治の世界に入ったとそういった自分の経験をお話しすることで、皆様方が少しでも何かを感じ取っていただければと、そういった思いで、今日は私も気楽にお話をさせていただきますので皆様方も気楽にお話聞いてください。
 現在、私はお示ししておるかと思いますが66歳ですが、後一ヶ月足らずで67歳になります。
 この北九大と言うのは、私にとりましては青春の真っ盛りというか、青春そのものでした。松任谷由美ではございませんが「青春そのもの〜♪」と言うやつです。
 しかし、さっき久しぶりにこちらに来て、改めて思ったのですが、この北方の風景が、ものの見事に変わりました。43年前は、まだまだいわば戦後の名残りが残っているような風景でした。魚町に出るのは路面電車ですね。ちんちん電車の時代、懐かしいですね。それが唯一と言ってもいい公共交通機関でした。今は学校もこの近郊の景色も、まさにさま変わり。われわれの頃はもう兵舎の跡が校舎でしたし、今は雲を突くような、すばらしい大学になっております。またそういったハードの面だけではなく北九州市立大は、内容も現役の学生さんの質も非常にすばらしい大学になっていると、お聞きいたしております。今やOBとして、卒業生として非常に鼻の高い今や北九州市立大学です。
 先ほど私はここで学んだと申し上げましたが、実はあまり自慢できることではないのですが、勉強した記憶がうすいのです。試験のときは、さすがに勉強しましたが、そのほかは、あまり勉強に熱心なほうではなかったんです。で二週間前、公開講座の第一回目の講師をやられた田村北九大同窓会長、彼とは同級生なのです。つい一ヶ月前、東京の関東北九大同窓会でお会いしたのですが、でも私は学校にあまりいっていない。彼は一生懸命勉強した学生でしたけど、ほとんど覚えていない、同級生でも学部が違いましたからね。
 私は大分県の中津市のとなりの宇佐市と言うところで育ったのですが、実家が農家で、それも大規模の農家でなかったため、非常に貧しい家庭で育ちました。
 ですから、大学に入ったときには入学金と前期の授業料だけは、父が工面してくれまして、その後は何とかして自力で卒業しようと心に決めて入学したのです。ですから、私が大学に入って最初にやるべきことは、アルバイト先を見つけることだったのです。
運よく、家庭教師の仕事が見つかりまして、八幡のある薬局屋さん、非常に大きな薬のおろし問屋をやっているところの御子息でした。そこで一年間、週に二回家庭教師をしたことがございます。その子が今どうしているかわからないのですけれど、私が教えたからさぞや立派になっているのではないかと思いますけど、実はその教えたというより、非常に記憶に残っていることがあるんです。戦後の高度成長に向けて、復興の槌音が激しくなった頃です。しかし貧富の差が非常に激しい時代でした。
 教えるところのお宅は、非常に裕福な家庭だったのです。
 その日の授業が終わると、おやつを出してくれるのです。そうしますと、恥ずかしながら私が食べたことの無いようなものが、毎回でるのです。こんなおいしいケーキがあるのかとか、あるいは旬よりも、もっと早い時期の果物とか出るので、びっくりするのですね。
 そういう裕福な生活をしている人も居るのだなと、いう思いを強く感じたこともございます。
 そうして一生懸命アルバイトをしながら、試験があるときは勿論、一生懸命学校に行きながら、4年間過ごしたものです。
 アルバイトもほんとに、ありとあらゆるアルバイトやりました。
 家庭教師は一回だけだったのですが、後はほとんど肉体労働ですね。これが金になるものですから、夏休み冬休みはアルバイトづくし。そして少しお金を貯めると好きな山に登っていたのです。
 そういった学生生活でしたが、今になって思えば「後悔先に立たず」という言葉がありますが、せっかく外国語学部米英学科を卒業していながら英語を全然しゃべれないという、恥ずかしい経験を持っている訳です。
 一ヶ月前、東京で関東同窓会があった時、その後に42年卒の商学部・米英科・中国学科卒の人の同級会があると連絡がありまして、それに出たくて、スケジュール調整して出席したのです。20人近く集まりました。商社なんかで大活躍して英語がペラペラ、そういう人が一杯居る訳です。今日もその一人の吉村くんも来ていますが、彼も日本語より英語のほうがうまいという同級生。
今になって思えば、とりわけ政治家の道に進むことがわかっていれば、一生懸命英語を勉強したんでしょうが、「後悔先に立たず」とはこういうことを言うんですかね。
 それからが大変なんです。大学を出て、何を血迷ったか俳優の道を志しました。なんで俳優の道を志したのかとよく聞かれるのですが、一言で言えばただ「好き」だったという事です。子供のときから、ちょっと異常なくらい好きだったのではないかと思います。
 秋なんか稲刈りが終わると、私たち子供たちは田んぼに出て落穂ひろいをやるのです。ざるを持って。すぐに一杯にたまるのです。それを母に渡すと10円くれたりしていたのですが。その金を貯めて、日曜日になると、私が住んでいるところから2里ぐらい離れた町に行くんです。自転車で1時間くらいこいで町に行って映画を見るのです。3本立てですよ、当時は。そして次の月曜日にいくと皆が待っている。どんな映画だった?と。それでその見た映画のストーリーを同級生に身振り手振りで話して聞かせて、喜んでもらっていた。それ位、そういう世界のことが好きだった。
 しかしその頃はその世界を目指そうとも思ってもいませんし、好きだからいける世界ではございません。結果的にそういう世界に進んだのですが、今思えばちょっとこじつけ、かな、と言う気もするのですが、当時はそりゃ私なりに真剣に考えたわけです。その一つのきっかけは人の死でした。非常に身近な、人の死が続いたんですね。わずか四、五年の間に。
 最初は高校3年のときに母が亡くなったのです。癌でした。
今でも癌は怖いのですが、当時はもっと怖かった。癌とわかってから、もう半年ももたなかった。食道がんでした。
 野良仕事で朝から晩まで働いている母の姿しか覚えていないくらい、働き尽くめの母だったのですが、おそらく我慢に我慢を重ねて、とうとう我慢しきれなくなったときは末期でした。そのときに感じたことは、母を失った悲しみも当然ありますが、それよりもっと強かったのは、なぜなのか、なぜ死ななければならないのかと言う思いを強くしたのです。
 人間に、当たり前の死とかいうものが、あるかどうかわかりませんが、少なくとも、私にとっては当たり前の死ではなかった。なぜなのだ。むしろ怒りに似た悲しみでした。そういう経験をしました。
 それから大学に入って二年のときから山岳部に入ったのです。そして三年の冬山合宿の時です。
 厳冬期の北アルプスの合宿に参加したのです。このときに5人パーティーで合宿をしたのです。北アルプスの後ろ立山連峰、剣岳とか槍が岳とかある、立山連峰と、黒部をはさんで反対側に、後ろ立山連峰があるんです。そこに鹿島槍ヶ岳という双耳峰の非常にきれいな、しかも厳しい山があるのです。
 今でも大変人気のある山です。そこの北壁では今でもよく遭難が起きるのですが、そこを目指して合宿をやったのです。5人パーティーで2組ずつ別れて、ボッカ方式で登っていたのですが、私は先発組の三人のパーティーで後の二人がその後発で、合流しては又、先発して登っていたのですが、先発組の我々が、鹿島槍のすぐそばに、爺ヶ岳と言う山があり、そこを超えたところに冷池小屋があって、その小屋にその日は入ることができました。後からの二人も合流するはずだったのです。
 その夕刻から猛吹雪が始まりまして、最初はトランシーバーで交信していましたが、爺ヶ岳超えてから小屋があるものですから、この吹雪では超えるのは無理だから、雪洞を掘って泊まると、連絡が取れたんです
 トランシーバーで交信してその日は終わったのです。そして次の日に合流できると思っていたらなんと二日間も吹雪いたのです。それは想像を絶する吹雪です。山というのは怖いです。自然と言うのは本当に怖いです。
 実は私も小屋にたどりつく迄、断崖絶壁すれすれのルートを歩いていったのですが、すごい風で、本当に這いつくばって、小屋にたどりついた記憶があります。重い荷物を担いでいたから飛ばされずにすんだのではないかという危険な状況でした。
 そういった激しい風と雪でした。そして二日目からは交信もできなかった。そして3日目にようやく吹雪が止んだものですから、我々はすぐ迎えに行ったのです。我々は爺ヶ岳の反対側から登ってくるはずの二人を迎えに行ったのです。
 爺ケ岳の頂上に行くと、他の大学のパーティーがあわてているのです。行ってみると、どこかのパーティーが遭難していると騒いでいたのです。「えっ」と不吉な予感しました。ザックが一つ斜面の50メーター位下に転がっていました。見たら「北九大山岳部」と書いているのです。
 びっくりしてバックの近辺を捜索していたら、100メーターくらい下に行ったところで一人亡くなっていました。凍死でした。後輩です。
 もう一人はとうとうその時見つけることができなくて、すぐさま三人居たのですが二人が急遽連絡のために下山したのですが、「横光お前は場所を確認する為に残れ」とリーダーに命令され、小屋に戻りました。悪いことにそれから、また吹雪きはじめたのです。
 すぐ救助隊が遺体の収容、そしてもう一人の捜索、あるいは私が残っているので救助に来る予定だったのですが、それが吹雪でなかなか登れない。登ると二重遭難の危険性がある。今日はその時救助に小屋に来てくれた先輩も見えておりますが本当にそういう状態でした。
 それから3日間ほど山小屋に閉じ込められたのですが、吹雪いてはいましたが小屋でしたから雪洞とかテントとかの危険性はなかったからまず安心でした。ただ下に居る人たちは大変心配していた様です。
 私は厳冬期の冬山は、まだ二回目でしたから。ベテランではなかったんです。それで横光は小屋を飛び出すのではないかと、皆心配していたらしいのです。
 ところが私はのんきなもので、そんな気は全然ない。もちろん飛び出せるような状況ではありません。小屋の中で乾パンかじって、すごしていると、あんな2000メーター級の山小屋にもねずみが居るのです。ねずみが出てくる。何も動かないものの中で、動くものを見ると、ほっとするのです人間と言うのは、ネズミがカンパンをかじりに来るのです。後は大声で歌を歌ったりしました。そんな記憶が非常に強いのを覚えています。
 そして3日目にようやく救助隊があがってきてくれまして、後輩の遺体を収容できたのですが、もう一人はとうとう、そのときは発見できずに、5月のゴールデンウイークの、雪が溶け始めた時に捜索隊を結成して、ようやく遺体を発見し収容することができました。ベテランの先輩でした。それも小屋のすぐ傍まで来ていたんです。ピッケルをまくらに、まるで昼寝をしている様な状態でした。
 つい昨日まで同じ頂を目指して、ともに汗をかいていた先輩、後輩が次の日には一つの物体になっていた。なぜだ。これまた私にとっては信じられない死だったのです。
さらに、四年の時の夏休み、大学の最後の夏休みだといって、地元に帰って親孝行するのだと帰った同級生。
 徳島の同級生でしたが、徳島の阿波の鳴門で鍛えている水泳の達者な男がなんと、海で溺死したという連絡が入った。
 とにもかくにも、信じられないような死が非常に身近に続いて起きた訳です。
 そのときに、先ほどこじつけといいましたが、一種のノイローゼにみたいになったのですね。信じられないことがつづけてあったわけですので、人間はいつ死ぬかわからないぞと、恐怖感に駆られるようになったんです。例えばちゃんと歩道を歩いていても車が突っ込んでくることだってある。
 ちゃんと歩いていても上から物が落ちてくるかもしれない。何があるかわからない。
 いつ人間は死ぬかわからないのだと一種の突きつめた思いになってしまったのです。
 じゃあ、いつ死でもいいじゃないか、というようなところに自分を持っていくことができないのかとそう思う様になりました。いつ死んでもいい状況、それは何だろうと考えたんですね。そしたら常に自分の情熱をぶつけていられる、状態のときなら、いつ死が来てもかまわないじゃないか、そう思うようになったのです。じゃあ、いつ死んでもいい、情熱を常にぶつけていられる様な時とは自分にとっては何だろうと思ったときに、何もなかった。真っ暗だった。
 その真っ暗な中で、チカット針の穴のように光ったのが実は演劇の世界だったのです。
 先ほど言いましたように、子供心にそういうところ目指す気はなくても、思いが潜在的にあったのでしょうね。それがチカット光った。ところが真っ黒のところに光ったものですから、それがすべて真っ白になってしまった。もうこれしかないと思い込んでしまったのです。
 今、考えるとよくあんな厳しい世界、いわば生き馬の目を抜くような芸能界です。よくあんな世界になんの経験もなく、目指す道筋もわからないのに決めたもんだなと今になってみると恐ろしくなりますが、これはやはり若さといいますか、若さの強さでしょうね。
 若さと言うのは、一度や二度の失敗を乗り越えられる力がありますよね。今だったら到底できないでしょう。でも当時それを実行したんです。
 目指す道は決まりました。この道を目指そう。俳優を目指そう。
 じゃあ、目指すその世界に行くには、どういうところからスタートすればいいのか。これまた何もわからない。
 今のように情報は多くありません。昔はそういったことの情報はご年配の方はご存知かと思いますが、月刊明星とか平凡とか、この二つの雑誌があったくらいです。
 どのような道があるかと、考えあぐねているうちに、これで行こうと決めました。非常に単純な道を選んだのですね。
 それは、ある俳優の、それも自分が心酔している、尊敬している俳優の弟子にしてもらおうと、こう思ったのです。そしてある俳優に会いに上京致しました。
 その俳優は誰でしょう?といってもわかりませんよね。
 大変な名優でございます。だいぶお歳を召されましたけれど今もお元気で、素晴らしい俳優です。代表作はいろいろあります。掃いて捨てるほどあります。喜劇、悲劇、時代劇、悪役まですべてをこなせるすばらしい俳優です。
 「飢餓海峡」という映画がございました。わかりました?だんだん。こういえばわかるかと思います。最近は釣りの映画。はい、そうです。三国連太郎さんです。
 私が北九大の時代、三国連太郎さんの主演映画が次から次へと上映されていたのです。続いたのです。それはすばらしい俳優でした。ちょうど三国さんが40代くらいですかね俳優として油が乗りきっていた頃でしょう。
 そして東京の住所を調べました。東京の神楽坂と言うところにご自宅がある。名前は三国連太郎と言う厳かな名前でなく。佐藤正夫といいます。よくあるありふれた名前。
 俳優の佐藤浩市さんがいますね、彼が三国さんのお子さんですが、佐藤浩市くんがまだヨチヨチ歩きの頃でした。私が行ったときは。
 とにかく水道橋という駅をおりて交番に行って、道すじを聞きました。言われたとおり坂を登って探していましたら、佐藤正夫という家がありました。大きなお宅でした。
 そこまでは目的どおり来たのです。
 そして、その門をたたくと、奥様が出てきて下さいました。佐藤浩市くんのお母さんで、三国連太郎さんの前の奥さんです。和服を着た、きれいな方で「どちら様ですか」と。後で聞いたら、私のような若者が三国さんの弟子にしてほしいとよく来るらしいのですね。
 ですから、あしらうことにもなれている訳です。「三国は地方ロケに行っておりまして、当分は宅には帰ってまいりません」とおっしゃるんです。私のほうは、会えるということを大前提にきているものですから、会えないというのは考えていませんでした。どうしたらいいか途方にくれてしまいました。当然のごとく会えると思っていたのに会えない訳です。
 仕様が無いから、とぼとぼと帰ろうとしていたら、そのときお付の人が1人居たのですが、後で、何で奥さんがあんなことをおっしゃったのか、わかりません。
 奥さんが「ちょっとあなた、今日泊まるところはあるのですか?」と声かけてくれました。そんなこと考えてもいません。そうしたら「ひょっとしたら、明日のお昼ごろ帰ってくるかもしれません。もう一度来てみたらいかがですか」と、いってくれたのです。そして近くの小さな旅館を紹介してくれたのです。
 それでまた次の日伺いました。今度は門前払いではなくて、居間にあげてくれました。そのとき、さっき言った佐藤浩市くんが3歳か4歳くらいだったと思いますが、廊下を走り回っていました。居間に神妙に座っておりますと、しばらくしたら、なんとスクリーンでみたあの三国連太郎さんがスーッと現れたのです。  本当の話、作り話ではありません。
 本当に、スクリーンでしか見たことのない人が、現れたんです。そして荒々しい演技の印象が強い人なのですが、非常に物静かな紳士でした。
 そして私に静かな声でこういわれたのです。「私は演技をすることはできますけれど、演技を教えることはできません」と。つまり弟子入りは断られた訳です。
 そして、もしあなたが本当に俳優をめざすのであるのならば、私のようなものの、弟子になるのではなくて、今はちゃんとした俳優の養成所がいっぱいありますから、劇団もありますからそこで勉強したらいかがですかと、そして俳優座とか文学座とか民芸とか、当時の大劇団がある事を教えてくれたんです。弟子にはしてくれませんでしたが、俳優の道しるべをサゼッションしてくれたのです。今の私があるのは三国連太郎さんと奥様のおかげだと思っています。
 そしてその三国さんの言葉どおり。俳優座・民芸・文学座3つ劇団受けたのです。
 俳優座も民芸も一次試験でぺけ。民芸なんか書類選考でぺけ。会ってもくれない。ところが杉村春子さんがやってらした文学座研究所では、なぜかしら一次の筆記試験で受かったのです。そこは今でも50名くらい採用するのですが、びっくりしたのは大学の競争率どころではないのです。50人を目指して千人くらいくるのです。

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 そして一次、二次、三次とどんどんはねていくのです。ところが一次で私は受かったんです。そして二次の試験は歌とダンスなんです。その歌は楽譜を持ってきなさい。歌は何でもいいです。歌曲よし、ジャズよし、歌謡曲よし、なんでもいい。民謡でもいい。ただ楽譜を持ってきなさい。それが条件でした。楽譜といってもそんなものこっちはどこにあるかわかりません。
そうなると悪知恵が働くんですね。その楽譜がどこにあるか考えました。ある本屋に行きました。音楽のコーナーのところにいって探すと、「日本歌謡大全集」という、分厚い本がありました。それをとってめくると、上に楽譜が載って、下に歌詞がのっている、これだと思いページをめくりました。当時はやっていた歌に「湖愁」という歌がありました。松島アキラさんの「湖愁」、非常に歌いやすい歌ですね。これなら私でも歌えるかなと。しかしこの歌一曲あればいいんで、これ全部買う金なんかありゃしません。一枚だけ失敬してしまった。その本買った人は「湖愁」と言う曲だけないのです。非常に申し訳ない事をしてしまいました。
 それをもって試験場である信濃町のアトリエに行きました。そしたらびっくりしました。稽古場に入りますと、ステージの緞帳の向こうでピアノ伴奏で皆さん歌の試験を受けていました。朗々とした歌ばかりが聞こえるのです。みんな歌のレッスンをしていたりしてプロ級の歌声です。私が持っていったのは歌謡曲の「湖愁」ですから、こりゃもうだめだなと思いました。聞いていると「待てど暮らせど〜♪」と朗々とした歌声が聞こえるのです。こっちは「悲しい恋の〜♪」でしょ。
 これは天と地の差だなと思っていると、私の順番が来ました。先生に失敬した楽譜を渡しました。そしたら先生がピアノを弾きながら「はい」と言うんですが、出だしがわからない、それじゃあもう一回、はい、それでも出だしがわからない。それじゃあ、あなた勝手に歌ってください、あとから伴奏つけましょう、と。それで勝手に歌います。伴奏がないから、しらけること、このうえない。
 「悲しい恋の〜」歌い始めました。「かわいあの子よさようなら〜」と歌い上げるところがあるんですが。ここが勝負と思っていたら「ハイ。結構です」と。いわれました。次のダンスの試験は、ライバル達がピアノ伴奏に合わせ見事に踊るんですね。練習している人はクルーッと回ったりすごいのですよ。五人ぐらいでやるのですが、私、何をしていいのかわからないから、音楽に合わせて立ったり座ったりしているだけで、これは絶対にだめだなとあきらめました。ところが面接のときに、杉村春子さんもいらっしゃいましたが、北村和夫さんとか、そうそうたるメンバーが座っておられました、私がそこに座ると同時にもう亡くなりましたが北村和夫さんが、「おう、君、君はスポーツマンだな、どういうスポーツやっていた?」と非常に気軽に声をかけてくれたのです。それでなんか不思議と力が抜けて、楽な気持ちでどうにかその面接を終えることができたのです。
 それでもだめだろうと思いながらも人間は、一縷の望みをかけるものですね。当事アルバイトで住んでいた住所に合否を知らせることになっていて、何日と決まっていました。 その日に一応、いや必死の思いで朝から、郵便屋さんが来るの待っていました。そしたら来ました。自分で書いたあて先ですから。雨がしょぼしょぼ降っていました。
 ぽっとめくったら「合格」と書いてあるのです。「やった」という思いより、しばらく呆然と見ておりました。ドラマのようですが嘘ではございません。雨でその字がにじんできたのを鮮明に覚えております。
 なぜ合格したのだろう、後で文学座の先輩に聞いてみますと、50人を選ぶ訳ですが、誰がいいとか悪いとか、その時にわかるわけがないじゃないかと。だから大学の演劇部で勉強した連中とか、普通の人より優れた演技者の感覚を持っている人、つまり優秀な人たちをまず選ぶ。その次は普通の人を選ぶ、そして最後に箸にも棒にもかからない人を数人選ぶらしいのです。その箸にも棒にもかからないところに私は引っかかったのです。
 50人受けた中で実は歌謡曲歌ったのは私も含めて3人いましたよ。バーブ佐竹さんの「ネオン川」を歌った、変わりものもおりました。そこが俳優の道のスタートだった訳でございます。
が、どの世界でもそうでしょうが、あの世界はとりわけ厳しい世界です。よく言うのですが富士山がありますよね、富士山の頂上には白い雪がかぶさっています。あの白い雪の部分の人たち位がテレビに出たり、映画に出たり、舞台に出たりして活躍している人です。そしてその裾野にはその白い雪の部分を目指す人たちが山ほどいるという世界なんですね。私も白いところまではたどり着けませんでしたが、白いところの下までいったかなとおもっています。それくらい厳しい世界でした。
 ですから当然、食うや食わずは当たり前の世界です。アルバイトをしながら演劇の勉強したのですけれど。文学座の研究所は一年間で終わりなんです。
同期で4・5人、つまり50人の1割くらいが文学座研究生として残るんです。私と同期で残ったのは、有名な人といえば、村野武範君くらいですかね。彼が残りました。ですから約千人くらいが同じ門をたたいた訳ですが、実際俳優として生き残れる人はわずか数人なのです。そのくらい厳しい世界なのです。
 私も当然の如く、残れませんでした。
 一年間たって、文学座に残る人、もう才能を自覚してやめる人、あるいは次の劇団を目指す人、いろいろあるのですが、私はその他の劇団を三つ受けましたけれど、全部落第しました。
 それで文学座に木村光一という演出家がいたのですが、その先生に相談にいったんです。芝居を続けたいけど行く所がなくなったというと、じゃあ「青俳」と言う劇団あるからいって見なさいと紹介してくれました。年配の方は御存知かも知れませんが、木村功と言う俳優さんがいました。非常に渋い、知的な男優でした。広島で被爆をした方ですが。この人が座長をしている「青俳」という劇団がありました。そこもすでに研究生は決まっていたのですが、おかげでどうにか一人追加してくれました。そこから本格的な俳優人生がはじまったのです。
 最初は舞台が中心でした。しかし、舞台に役者として立つどころか、金槌持って舞台装置を作る仕事です。そういう裏方をやりながら、ようやく舞台に出たら「町の人1」「兵隊2」とかその他大勢の役しか回ってきません。それはごく当たり前のことでした。アルバイトしながら俳優修行をしているのですが、劇団も毎月毎月舞台があるわけではありません。それでマネージャーが少しずつマスコミのほうにも、売り込みかけてくれるのです。テレビでもちょい役をチョコチョコやっていたのですが、あるとき劇団から連絡ありまして、そのときには、まだ電話ももちろんありません。連絡は電報なのですよ、「TELせよ」と。すぐに公衆電話から電話するのです。「横光、いい役がついた。台詞があるぞ早く来い」と。うれしくなって飛んでいったんです。
 台本を見せてくれました。今井正監督の「婉(えん)と言う女」という映画でした。岩下志麻さんが主役です。台詞があると言われたけれど、どこ見ても台詞がない「台詞ないじゃないですか」「あるじゃないか、ここに。ほら、エイホ・エイホ」。駕籠かきの役でした。「エイ」と前の駕籠かきが言うと後ろは「ホ」と言うのが映画の中で聞こえるのだぞ、と。「エイホ・エイホ」これはショックでした。そして、とにもかくにも駕籠かきの役で、東京の青梅の山奥のほうにロケに行ったんですね。
 そうするとキャメラ据えたところから、谷を隔てたはるか向こう側の道を、籠を担いだ一行が進むシーンを望遠で取るカットなのです。100メーターくらい向こうの道を籠担いで歩くのです。そしたら監督がリアリズムと言うか、くそがつく、リアリズムの人でキャメラレンズ見ながら籠の重さを感じないとそう叫ぶんです。中は見えませんから、空で担いでいたのですよ。それで岩下志麻さんくらいの人を乗せてリハーサルです。肩が痛くて痛くてそれを何回もやらされるんです。
そしてその駕籠かきをヒーヒーいってやっているそばを、カッコいい若侍が護衛としてサッサッサッとついてくる。それが、北大路欣也さんだったのです。
 考えたら私と同じ年です。これまた天と地ですね。方やその映画の主役かたや駕籠かき、同じ歳です。お昼になると岩下さんや北大路さんをスタッフは下にも置かないという感じで大事にするのです。われわれ端役にも、一応弁当が出るのですが「ほら、弁当だ、弁当だ」と弁当投げるように渡すんです。主役級は下にも置かない、端役は物扱い、これは激しい差だなと痛感しました。しかし、これが当たり前の世界なんです。そのときに感じたのが、なにくそと言う思いでした。今に見ておれと言う思いが逆にしたのです。普通は、そういうのでだんだんめげて、辞めていく人が多いのです。
 でも私は今に見ておれと言う思いを持ち続けながら粘り強くがんばったのです。そしたらチョコチョコ役がくるようになった。NHKで「中学生日記」という番組が今もありますよね、あの初代の先生役を実は私がやったのです。1年間やりました。
 その時代、私はアルバイトやっていたのですが、この番組はNHK名古屋放送局で製作してまして、週に二回、月に10日ほど、名古屋に通わなければなりません。となると、アルバイトができません。アルバイトさせてくれません。そのときのNHKの30分の番組でギャラが4000円くらいです。月に4回放送しても2万円足らず。これでは生活できません。
 しかしせっかく声のかかったレギュラー番組の主役です。
 これは断る手はありません。どうにかなるだろうと思いきってアルバイトをやめて、引き受けました。そして目黒にちっちゃなアパートを借りたんです。ギャラはそれだけなのですが、NHKと言うのは東京放送局から地方局にいくと出演料と別に一日いくらという日当が出るのです。これが5日分が出る。それと往復の新幹線の交通費が出る。これが「ひかり」の料金が出るんですが、「ひかり」を使わずに「こだま」に乗って差額を浮かします。それと宿泊費が出る。宿泊費は普通のホテルに泊まれる程度のお金がでるのですが、そんな高いところに泊まる必要はないので、NHKの寮にとまる。NHKの寮といってもちょっとしたホテルくらい、設備はいいし、ものすごく安い。これも差額を浮かします。そうすると一回往復すると、ギャラと別に浮かしたお金が入ってくる、それで一週間生活してまた名古屋に通うんです。それを一年間繰り返す生活をしました。どうにかなるものだと思ったとおりになりました。という訳で「中学生日記」は私にとりましては俳優として一本立ちした記念すべき作品なんです。
 それから3・4年後ですか「特捜最前線」という番組にめぐり合いました。当時はそれこそ刑事物全盛時代でした。毎日、毎日、刑事ドラマの無い日はなかった。「太陽にほえろ」とか「Gメン75」とか「夜明けの刑事」とか「非常のライセンス」とか、その中に「特捜最前線」というのがあったんです。ところがこれは地味な番組でした。「太陽にほえろ」のようにバンバンとかっこよくやるようなドラマではなかったんです。「西部警察」とか派手な番組が多かっただけに、逆に静かな人気がありました。ストーリー性を大切にしたプロデューサーだったのですね。なぜ犯人はこの事件をひきおこさざるを得なかったのか、その事件に係わった刑事の苦悩とか、そういった社会性を帯びたヒューマンな面を大切にしたドラマでした。実はこういった内容が好評で、長く続く結果につながったんです。一時は視聴率が25パーセント越す時期がありまして、約10年間続いたのです。
 これも不思議な縁ですが、私はその以前に目黒の駅前のビルでアルバイトをしていました。地下から8階まで全部遊興業のビルです。バー、パチンコ屋、喫茶店、キャバレー、レストラン。そのビルの屋上に住み込みで働いていたのです。そこの最上階に「グランビア」という高級レストランがありました。今は回りのビルが高くなって、小さくなったのですが、当時は高台にあって、そのビル以外周りにビルがなくて東京タワーがすぐ目の前に見えるくらいなんです。城南の夜景を一望できるレストランでした。このレストランが深夜までやっていた。そのビルで、私はエレベーターボーイとして働いていました。夜中の12時過ぎると続々とお客さんがやってくるのです。12時過ぎてからですよ、コント55号の欽ちゃんが売れ始めた頃で、毎晩美女を連れてきていましたよ。王選手とかフランク永井さんとか、そうそうたる人達が来ていましたよ。そのときある人が来て、レストランに送ったんですが、ふと見たら、銀髪のシルバーのすごくかっこいい人でした。二谷英明さんだったのですね。
 それから3年位して実は「特捜最前線」で二谷英明さんの下で紅林警部補役を演じることになるわけですが「そうか、君はあそこで働いていたのか。」とこれも奇遇でしたね。
「特捜最前線」と言う番組で、少し顔と名前が知られるようになったんですが、このことが政治の世界へとつながったのです。
 私の兄貴が、実は大分県で学校の先生をやっていまして、それで「地元で国政選挙があるからお前ちょっと応援に帰って来てくれ」と頼まれたんです。しかし候補者の事を知っているわけでもないし、そんな何も知らない人の応援なんかできない、と断りますと、応援に来ると謝礼が出るらしいぞと、というのです。人間、お金には弱いですね。わかりましたと。それで、応援に言ったのが運のつきといいますか、政治家の道を進むきっかけになる訳です。ちょっと名前が知られていたものですから、団地とか、そういうところに応援にいかされるんですよ。候補者の名前よりも「特捜最前線で紅林刑事役の横光克彦がやってまいりました」なんてウグイス嬢が叫ぶと、チョコチョコ人が出て来てくれるのです。
 俳優やっていましたから「こういうこと言ってください」と資料を渡されると、当時は今ほど記憶力は衰えていませんから、すぐ頭に入れることができました。「政治をきれいにする為には政治改革を」とか「今こそ政治を皆様方の手に」とか何とか、かっこいいこといっていたらしいのですが、結局それが選挙対策本部の人達の記憶に残っていたらしいんですね。それがきっかけで、17年前1993年に総選挙に出馬することになったんです。大分県選出の参議院議員がいらして、その方から会いたいと連絡がありました。
 また選挙の応援依頼だろうと思いまして、私の方から参議院会館にお伺いしたのです。そしたらその先生が、座ると同時に「今度またいよいよ選挙が近くなった。ひとつ選挙の応援よろしくお願いします」といわれるのかと思ったら「選挙にでちょくれ」と言うんですよね。これにはびっくりしました。
 まあ、よく驚天動地とか、天と地がひっくり返るという言葉がありますが、正直あの時ほど驚いたことはありません。
 当時はまだ中選挙区だったのです。最後の中選挙区選挙でした。そして私のところの選挙区は実は3人区で自民党2、社会党1の安定区だった。ところが選挙区が減員区になって定数3が2になった。しかも社会党の現職の方が70歳の定年で勇退されました。3人区だったら候補者はいっぱい手を上げていたらしいのですが、2人区になって自民党の現職2名に立ち向かうものですから、誰も手を上げなかった。もう不戦敗かなと思ったときに、「そういえば横光と言うのが応援に来たな」と誰かが言ったらしいのです。そこに火がついたのです。不戦敗よりはいい。戦えるだけでもいいという気持ちで向こうは私に出馬要請に来たのです。これには悩みました。ずっと俳優やるものだと自分の中では決めていたというより、あたりまえのことだと思っていたのです。それがなんと政治の世界、しかも日本で一番大きな衆議院選挙に出ないかという要請です。
 もちろん私も俳優時代、政治のことには非常に関心を持っていました。たとえば文学座・青俳と、いわゆる新劇の世界からスタート致しましたが、新劇の主流は反体制の演目が多かったです。水俣病を原案とするイタイイタイ病の『神通川』とか『地の群れ』とか上演しておりました。また、たとえば東映で撮影していた「特捜最前線」でも、途中で急遽撮影がストップしてしまうのです。なんでだろうと思っていると、今日はこれからストに入るりますと。撮影のスタッフと会社の労使交渉が決裂して、ストに入るから撮影は中止だと。こういうことを何回も経験したんです。我々はある意味では光のあたる部分でしたが、その裏では撮影スタッフに支えられているんですよね、そうした人達が必死に生活のために労働条件で経営者と戦っていたんです。
 そういった経験もありまして、非常に関心はありました。しかしまさか自分が政治家として表に出てやろうという気持ちは正直これっぽっちもありませんでした。ところが声がかかった。迷いました。
 俳優を目指したときの決断は一人でした。若かったし自分だけの責任ですんだ訳ですが、そのときは49歳6ヶ月、ほぼ50歳目前だったのです。妻と子供が2人おりました。2人とも小学生でした。
 ですから昔のように私の一存では決断できません。ずいぶん悩んだ末に、人生80年としますか、今85ですが平均年齢は、その間で50歳まで俳優という好きなことやってきた。残り35年あるときに、こういった要請があった。断るの簡単ですよね。「できません。」と言えばそれですんだのです。しかし、もしこれを断っていれば自分の人生どうなっていただろうと、もし違う人生を歩んで、死を迎えるときに、あの時こういった要請があったなあ、あの要請を受けていればどうなっただろうかと思ったときに、後悔すると思ったんです。それが一つ。今一つは悩んでいるときに、女房が非常に厳しい言葉を投げかけてくれました。「要請があったから、じゃあ、やって見るか、という気持ちでやるのなら、やらないほうがいい。あなたは苦労して苦労してここまでやっときたではないか。その経験を通して人に訴えることがあるのならば、そういったハートがあるのならばそれを訴える場として最高の場所ではないか」と言ってくれたのです。そのとき私は決断したのです。やりましょう。と。
 そしたらすぐ6月に、宮沢内閣が不信任案を突きつけられて、これが成立したのです。
 当時の自民党が分裂して不信任が成立しました。6月18日でした。そして解散になった。私が出馬表明したのが6月20日。地元大分に帰って、両親のお墓にお参りをして、それから出馬表明を致しました。7月4日が告示日、7月18日が投票日。出馬表明してから投票日まで一ヶ月もなかったのです。
 ですから大方のマスコミには無謀な戦いだと批判されました。しかも現職2名が相手です。更に野党からの出馬です。あまりにも無謀な戦いだとマスコミに報道されたのです。
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 私に出馬要請してきた人たちも、最初は正直言って、やる気がなかったみたいですね。呼んだはいいが、あんまりやる気が薄かったみたいです。ところが私が思っている事をいい始めたり、街頭で訴えはじめると、反応があるらしいんです。私は初めての経験ですから何もわかりません。しかし選対の人たちは今までの選挙と違って反応があるものですから、だんだん燃え始めたのですね。このくだりは私の「俳優から代議士まで」と言う拙書がございますが、ここに詳しく書いております。

 最初に選挙区を一巡すると、確かに多くの人が出てきてくれるのです。横光候補が来たと、ところが最初は「候補者横光克彦」を見にきているのではなく、あっ、俳優の横光さんと言う感じで、見にきてることがよくわかる。それでも二周目になると、だんだん「衆議院議員候補」と言う目で、見る目つきが変わってきたなというのが、私のほうから見てもわかるのです。
 非常に印象的だったのは、ある田舎に選挙車が入ったときに、山の上のほうから、下り坂を腰の曲がったおばあさんが、とっとっとっと杖ついて走ってきて、私の手を握ってくれて、そのときは俳優とはいわずに「がんばってください、がんばってください。」と。そういったことを覚えています。
結果的にはなんと二位に約1万票も差をつけて、88,338票でトップ当選をしたのです。中選挙区でしたけど。政治経験がない私に、もっといえば、ふるさとを長く離れ、俳優の世界におった人間に、国政の一番大きな総選挙で88,338名の方が実際に私の名前を書いてくれました。
 最初に政治家としての井戸を掘ってくれた方々です。この数字は生涯忘れることないでしょう。私の名前を書くことには、大変勇気がいったと思うのですよ。でも書いてくださった。
 そこにはすべて「横光さん、あんたはまだ何も知らんけど、これからのあんたに期待するで」とすべて期待をこめて書いてくれたと、このようにうけとったのです。ですからその期待にこたえる、ということが今日までの私の政治家としての最大の原動力でした。
 ですから、最初は当選した後、まだ、ドラマの出演話が舞い込んだりしてきていました。しかし全部断りました。全部断って「一足のわらじ」しか履くまいと思いました。とにかく一から勉強だとすべて断ったんです。今日まで政治討論番組等は出たことあるのですが、それ以外はドラマには一切出演しておりません。
 私はそれでよかったと思っております。
 今日は現実の政治のことは色んな立場の方もおれらると思いますので、お話しすることは差し控えたいと思いますが、政治家の一人として、これだけは申し上げたいのです。とにもかくにも政治に関心を持っていただきたい。そして政治に参加していただきたいという事です。つまり日本の国は法治国家ですよね、これは国を守ること、国民の生活を守ることを中心にあらゆる問題にすべて法律が係わっているのです。その法律を作るところが立法府である国会なのです。
 しかし実際には、国会で働く我々は、場を与えられて働いているだけなのです。
 突き詰めていえば政治をやっているのは国民、有権者なのですね。国民有権者の判断によって、政党、政治家が選ばれ、その結果その数によって法律が作られている。
 ですから実は我々が法律を作っているのではないのです。最終的には国民、有権者が法律作っているといってもいいでしょう。ですから選挙があり、どういう政党を選び、どういう政治家を選ぶか。ここから始まっていると言ってもいいのです。ですから、是非とも諦めないでほしい。政治に諦めないでほしいのです。
 諦めるのはほんとに簡単です。しかし諦めたら必ず自分たちに跳ね返ってくる。そしてそのことに対して文句を言えなくなる。ですから、ぜひとも自分が信念を持って政党・政治家を選んでほしい、そして選んだのが間違いだったら次のときには違う形で選べばいい。
 今日は若い方あまりいらっしゃらないようですが、特に若い方に訴えたいのです。これから若い人達の時代ですから自分たちの時代が来るためには、自分たちが今参加しなければだめですよ、とお願いしようと思っていました。
 私が始めて国会に行ったとき、つまり平成5年・1993年に日本で始めて自民党の単独政権が終わって連立政権が始まった年なのです。
 歴史的な年に私も、政治家になったのです。あの細川連立政権が誕生したとき、その細川連立政権の与党の一員として、私は国会議員としてスタートしたわけでございます。以来6回選挙を戦いました。途中2回、比例復活ということもございましたが。6期連続、地元の有権者は国会に送っていただきました。
 私の政治スタンスは、先ほど申し上げましたように、社会党・社民党からスタートしております。世の中の社会構造というのは、各階、各層、渾然一体の形で成り立っている。そして競争の社会ですから必ず強いサイド、弱いサイドがどうしても出てきます。
 強いサイドに立つ政党や政治家は実は一杯いるのです。弱いサイドに立つ政党や政治家は正直言いまして少ないといってもいいでしょう。
 でも政治と言うのは、マジョリティーだけでなくマイノリティにも光を当てるのが大切な仕事ではないかと、かねてから思っていました。大企業もあれば中小、零細企業もある。
 経営者がいれば労働者がいる。お医者さんがいれば患者さんがいる。健常者がいれば障害者もいる。そういう風に常に、強い立場・弱い立場と言うのは必ず存在するのですよね。
 そうした場合、私は少しでも弱いサイドの立場に立った政治家であり続けたい。この信念は今でも変わっておりません。そしていま一つは、私は兄二人を戦争で亡くしました。だから子供時代に父や母が、仏壇の前で悲しんでいる姿を、よく目にしていました。父親から戦地の悲惨さも聞いておりました。ですから私は、知らず知らずのうちに二度と戦争はあってはならないと、そのためには今、与えられているこの憲法を大切にしなければならないと思っていました。
 この平和憲法を守るために、480名の衆議院の中の1議席守るためにがんばろうと。こういう思いも持ち続けてまいりました。
 しかし、社民党でがんばってきたのですが、残念ながら選挙をやるたびにその社民党の議員は減ってしまって、4回社民党で戦ったのですが、とうとう3回目、4回目ごろは人がいなくなって、私が国対委員長とか副党首とかやったのですが、それは数が少ないから、10人足らずでしたから、あらゆることをやらざるを得ないんです。しかしあらゆることで、がんばってもなかなかそれが成果として表れない。
 そのときに、つくづく悩んで、これからは政権を狙える政党でがんばって、思いを形にしなければと思うようになったのです。そして、6年前に私は、実は解散と同時に社民党を離れました。支えてくれた人達は大変怒りました。それはそうですよね。でも私は政治家になった以上、政権を狙える政党でがんばる。そのことこそが本当に支えてきてくれた人たちのためになるのだ、という思いで、民主党に入ったわけです。それから6年して昨年の8月に、国民は政権交代を実現させてくれました。ですから今、私はあの時の決断は間違っていなかったんだと思います。大変厳しい批判を受けましたが、今、だんだんそういった人達も理解してくれ始めています。
 政権は変わりましたけれど、皆様方にはこの一年、ご迷惑をかけているところが多いと思います。
 期待に答えることができた課題、期待に答えることができなかった難題。そしてまた先送りせざるをえなかった問題と、いろいろこの一年間ございました。
 政権交代して一年になりますが、私国会にいて感じますことは、えっ、まだたった一年間しかたっていないの?と、もう何年も経ったような、そんな感じさえするのです。つまりそれほど多くのことが込められた一年だったんだなという思いがいたしております。つまりそれほどに政権を担うということは大変なのです。
 ですから50年以上も政権を担ってきた自民党には、ある意味では本当に敬服に値すると思います。けれどもあまりにも長きにわたり政権の座にいれば、どの政党であっても必ずゆがみます。ひずみます。よどみます。そういったものを昨年はやはり国民が感じたのではないかと思います。
有権者は、本当の意味で民主党に期待して政権を変えたというよりも、自民党のこれ迄の政治に対して、嫌気がさして民主党に政権を与えてくれたのではないかと思います。
 50年以上も続いた岩盤のような政治体制を一年間ではありますが、今、徐々に打ち砕きはじめたばかりなのです。なかなか急転直下、政治というのは代わるものではございませんし、もっともっと長い目で見ていただければと思っております。今本当に国内外問わず多くの難題・課題を背負ってスタートした第二次菅内閣でありますが、まさにこれからが試練だと思っております。
 今日は質問を受けるとしたら、お叱りの質問が一杯あろうかと思います。
今、臨時国会の開会中でありますが、一番大事なことは、やはり国民生活に直結する法案を成立させることです。
 つまり補正予算案を一日もはやく成立させなければなりません。
 我々も野党時代、ずいぶん経験して参りましたのでわかるのですけれど、やはり自民党も野党になりますと、もうただただ反対する。それが本当に国民のためになるのかといえば決してならない。わかっているけれど反対するんですね、それが野党の立場なのです。
 与党になってその苦しさを今感じているところでありますが、とにもかくにも補正予算案をはやく成立させなければならないと思っております。
 私が今日、お話ししたことの中で、一つは政治にとにかくあきらめないで参加してほしいということ。
 それからもう一つは人生に無駄はない、ということです。
 たとえば私、俳優の世界から政治の世界へと大転換したのですが、「だったら横光さん、あんた俳優時代は無駄じゃったな。」とよく言われるのです。でも決して私そうは思いません。
 俳優やっていたことが無駄だったとは決して思っておりません。俳優時代は俳優としてちゃんと意義のある仕事してきたと思っております。
 そして非常に共通点もあるのです。俳優も政治家も、まず一つは、共に選ばれてはじめて仕事が出来るという事です。俳優の場合もプロディユーサーやディレクター、脚本家やいろんな人から、選ばれて役がつき、そして仕事ができる。政治家も有権者から選ばれなければ仕事できない訳です。
 その為に常に選ばれるための努力を両方ともしている訳です。
 そして政治家も俳優も訴えるのが仕事です。俳優は五体を使って自分の表現で、その役を演じ、そして視聴者にその存在を訴える。役の存在。役者の存在を訴える。
 政治家も自分の信条とか政策を有権者に訴えるのが仕事です。そしてその訴える方法として、発声の仕方とか身振り・手振りとか、あるいは顔の表情とか、こういったものも政治家にとっては大変重要な事なのです。ところがそういった面は、私俳優時代に長くやっていましたから、ある意味では修行してきましたから、そういうことをやってない人に比べれば、有利ですよね。つまり人に伝える手法も俳優時代の経験は大きくプラスになっているのです。政治家は言葉をはっきり伝えなければなりませんし、そういったものは無意識のうちに身についている。
 そういった意味で俳優時代は決して無駄ではなかったと私は思っております。
 何よりも俳優であったからこそ、政治の道が開けた訳です。
 いまひとつは、決断ですね。決断と言ってもさまざまな決断があると思うのです。何気ない決断、あるいは自分の人生を左右するような決断。それぞれあると思います。
 たとえば日常生活でも、つねに皆さん方も決断をしているのですね。何気ない決断、もしくは選択といってもいいのですが。たとえば今日はどういう洋服を着ようかとか、どういうネクタイしようかとか、全部自分で選んで、今日はこのネクタイしよう決断するわけです。今日のお昼はカレーにしようかなラーメンにしようか、これも選ぶ。そういう風に常日頃、決断と言うのは伴っているのですが、かといって自分の人生を左右するような、非常に重く、悩みながらする決断もあります。
 ですから私は50歳にして人生が大きく変わったのですが、「変わった」のではなく「変えた」のです。これも自分で決断したわけです。これからも、まだまだ決断する時が、あるいはせざるえない時があろうかと思います。しかし最後の最後は自分で決めるのですから、決断の重さと言うものを自覚して頂ければと思うのです。
 取り留めのないお話になりましたが、わたくしのこれまでの経験からして、ちょっと独断で思っていることがあるのです。人間には2つの命があるのではなかろうかと。一つは宿命でございます、いま一つは運命でございます。宿命も運命も同じじゃないですかと皆様方はおそらくそう思っておられるでしょう。確かに人間知では図り知れない作用が運命であり宿命だと思うのです。しかし私はちょっとだけ違うのではなかろうかと思うのです。
 宿命とは命が宿ると書きますよね。つまりその人がこの世に生を受けて、自分の人生を全うするまで変わらない命。宿りきった命。これが宿命。
 ところが運命と言うのは命を運ぶと書きますよね。これはその人の生き方や考え方や、あるいは決断の仕方によって、運命というはの変わるのではなかろうかと、よく運がいいとか、運が悪いとか、いいます。
 それもそういった結果につながっているのは決断があって変わるのです。ですから決断と言うのはいろんな意味で人生を左右するものだなという思いが致しております。
 最後にある舞台の最後の台詞で、今日のお話を終わらせていただきたいと思います。
 私、文学座と言うところから俳優の修行を始めたといいました。この当時の座長が杉村春子さんでした。
 大変な名女優でございます。そして文学座研究所のときに研究所から劇団の観劇、劇を見る会がございまして、そのとき連れて行ってもらったのが杉村春子さん主演の「女の一生」と言う舞台でした。ちょっとあらすじ申し上げますと。「布引 けい」と言う少女が日露戦争で大勝利をして、提灯行列をして日本中が沸きあがっている中、女中として大豪邸の前で水まきをしている。
 そこから幕が上がるのです。下働きをしている「布引 けい」と言う少女が、一生懸命働くのですが、働いているうちに、下の息子さんと仲良くなって淡い恋心抱くような仲になっていきます。そして親から、その働きぶりを見初められて「けい」を嫁にほしいと言われます。その相手は、ほとんど話もしたことないどちらかといえば、冷たいお兄さんの方だったのです。そしてお兄さんと結婚します。
 やがて子供が生まれる。弟は左翼に走る。子供も大きくなって親として、いろんな事を経験していく、夫婦仲は冷たいままで、娘たちにも反抗される。そのうちに左翼に走っていた弟が、逃亡の果てに匿ってくれと来る。そして、「けい」は匿ってやりながらも弟の為に良かれと思い、特高警察に連絡して連れて行かせる。
 いろんなドラマがある。最後の最後は太平洋戦争で豪邸もすべて灰になる、すべて灰になった原っぱでひとりぽつんと白髪になった「布引 けい」が焚き火をしているのです。
 そして焚き火をしながら自分の越し方、これまでの人生を振り返りながら、さらに、これからの未来に向けて思いを馳せる。
 そして独り言を、ぽつんと、つぶやくのです。
 その台詞と共に幕が下りるのです。それはこんな台詞です。

 「誰が選んでくれたのでもない。自分で選んだ道だもの。間違いだと知ったら、自分で間違いでないようにしなくては。」

 今日はどうもありがとうございました。