北九州市立大学同窓会

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平成22年度北九州市立大学公開講座 (同窓会員による講演)
基本テーマ 「北九州市立大学をバネに活躍する人々」

「教育と聖書にかけた半世紀」  
        西南女学院大学理事長 田中 綜二
(S40・商学部商学科卒)
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1  皆様こんにちは。このような形で皆様方とお会いできましたことの幸いを心から感謝する次第です。私は、ここに立つということを許されること自体が不思議だなと、これも私の信じてる主イエスキリストのお導きかなとも思っています。
 とにかく今日このように学長先生始め、またコーディネーターを努めてくださる山崎先生に心から感謝いたします。

 始めから弁解じみたことですけれど、私は、教育者でもございませんし、宗教学者でもございません。従いまして皆様方が求めていらっしゃることについて要求に、答えられるか危惧いたしますけれど、それは聞き上手な皆様方のお力に免じていただきまして、お許しを頂ければと思うしだいです。
 私は、北九州大学を出ましてから、本当に、この同窓会に係わったことなどいろいろしましたがこれといった貢献もなにもしておりません。従いまして万分の一でもお返しできればと、この勤めをお引き受けした訳です。
 私は、1958年昭和33年4月15日に第9回の入学式で商学部に入学を許されました。
 当時の学長は古野清人先生で非常に優秀な学者さんでいらっしゃいまして、本当に静かな学長だったと思います。この学長は第2代か3代かの学長だったと思います。
 昭和33年といえば皆様ご承知のように、小倉駅の新駅が開業した年であります。そしてまた関門トンネルが開通して、トンネル博が門司の老松公園で大々的に行われた年です。そういうことで記憶によく残る年代であったなと。
 当時入学したときに学長の式辞もそうでしたけれど、非常に学識の高い式辞をされました。そのあとに出てこられましたのが、同窓会長の土谷清さんという、まだ新進気鋭で脂ぎっているような同窓会長でした。どうも電通にお勤めだということ聞いていましたが。この方が入学式の祝辞でこうおっしゃったのです。「君たちはよくこのような破れ大学に来たものだ。ありがとう。」
 わたしは昔からなんでもメモをする癖があるのですが、なんでもメモするのですが、それが膨大な資料となり、家内がいらないものと時々捨てることがあるのですが。これは大事なものととっておりました。紐をときました。そういう風に書いてあるのです。そして「心から歓迎しうれしく思う。しかし北九州大学は破れてはいるけれど、中身の濃い、おいしいすばらしい大学だ。」何でおいしいとおっしゃるのかな。とにかく大学はおいしいと、どうしてか。それは固有名詞は出しませんけれど、肉まん、あんまんのように美しく外が大きいあんこの小さい饅頭じゃないぞ。
 「北九州大学というのは外側は破れている、あんこが少しはみ出ているような破れ饅頭を創造してください。こういうような大学なのだ。そのあんこは君たちなのだ。そして我々なのだ。我々がそれを歴史と伝統で築いてきたのだ。」とおっしゃったのです。「それで北九州大学は破れ饅頭と一緒で中身が一杯詰まったこの饅頭なのだから。内容のある中身を君たちは築いてほしい。そして社会人として国際人として活躍する技を見につけてほしい。そのためには校舎は破れているけれども、授業をされている先生は一流だよ。保障するよ。」とおっしゃいました。
 みなさんは今創造できない校舎ですが、ここはグランドでした。向こうの部室のあるところが校舎でして、兵舎でした昔は、それを利用していたのです。 全部木造です。そういうことで、その同窓会長は破れ北九州大学、破れ校舎、とおっしゃったのです。
 そして「北九州大学の発展は君たちの双肩にかかっている。一年先の花を育てるより10年先の木を育てるよりも100年先のことを考える人間になってほしい。」とおっしゃったのです。あー、すばらしいことをおっしゃる方だなと思って頭に残っておりますが。
 後に私の読んだ本にルイアラゴンという人の言葉であるということがわかりました。
 ああそうか、だけどよく言ったな「一年先の花を育てるより10年先の木を育てるよりも100年先のことを考える人間になれ。」ああそうだなと思いました。そして最後に「約束するか」とおっしゃった。しかも学長の3倍も大きな声で言われましたので、保護者も新入生も感動しました。これが入学式の記憶でございます。
 それから学生生活が始まりますけれども、私は入学して2ヶ月ほどたちますと男性合唱団「オルフィアコール」というところに入部しました。テストがありまして、ディユファの「グロリア」という曲でした。ちょっと来いといってオルガンのところにつれていかれまして、今でも覚えていますミー・ミ・ミ・ファファ・ソファというそれは、ラテン語に直すと「エイティン・テラパフォ・ミニーブス」という歌なのです。そして合格とテナーに入ったのです。タバコとお酒は卒業まで飲んではいけない。なぜかベースとバリトンは酒を飲んでもいい。 だけどもテナーとセカンドテナーは飲むことあいならんと、言われまして、それが幸いいたしまして今72歳なのですが、飲まなくてすみました。
 そしてその入っているところに男性が主なんですが物足らなくなりましたので、私は美術部を創設し俳句研究会を創設いたしました。 もともと美術大学にいきたかったのですが父親の厳しい反対にあいまして美術を断念しました。そして東京にあります工業大学の建築科に行くように決まっておりました。ところが父が会社を倒産させまして、門司港で貿易会社しておりまして、炭鉱も長崎でしておりましたもので、それを倒産させたのでそれから私の苦行が始まったわけであります。
 私は、7人兄弟の長男でございます。下の5人は全部癌であっちのほうに行きました。
 私と年子の弟が今健在でございまして、二番目の弟は毎日新聞社から出向いたしまして、宮崎放送のトップまでなりまして、今顧問でのこっていますが、会いますと健康の話しかしないようになって、ああそんな年になったのかなと思ったりする訳であります。
 従いまして大学にはいってから、コーラスやりながらバイトをしました。死に物狂いでしました。家庭教師5、税関のウオッチマン、「ウォッチ」というのは見つける・注意する。「ウオッチ・ザ・フィンガー」地下鉄になんか書いてある「手を挟まないように」とかいうのにそういう言葉が書いてある。そのウオッチマンとは税関で税関職員について船に乗り込んで、船員が船のものを持ち出して外で売らないようにとか、あるいは不法なもの持ち込んでどうにかしないようということの検査をする仕事でした。
 そのほかに植木職人、ペンキ職人、香椎花園の花壇のペンキも私は塗った記憶があります。ナショナル電気冷蔵庫の修理屋、冷蔵庫の修理は今でもできます。裏側がどうなっているかわかっています。そして九電の電柱の穴掘り。昔は電柱は木でございました。そして間隔を決めて電柱立てていくのですが、北九大の学生何十人かと、やまいも堀りを一本ずつ持たされ、トラックに乗せられ、君はここ、君はこっちと。そして夕方にトラックが迎えに来るのです。そういうことをやりました。
 美しいところでは旭硝子のママコーラスの指導をしました。そのとき月に4千円位いただいていました。非常に高給でした。そのときの玉屋・井筒屋の一日の日給が、だいたい260円位でした。一ヶ月働いても何千円、7〜8千円しかならない。
 私は幸いにちょっと字を書きましたので、あまり苦労しなくて、お歳暮・お中元の伝票書き。 これを朝から晩までやりまして、どこの会社が儲かっているかというのがそれでわかったという勉強もさせてもらいました。
 そして、その頃俳句の研究会、将来、自分で言うのもおかしいのですが、嘱望されていました。「自鳴鐘」の横山白虹さんと奥様が房子さん、俳句をされた全国的に名の売れた、九大医学部を出たお医者さん、北九州の有名人の一人でございます。この方に師事しまして俳句をやったわけです。非常にピュアな俳句を作りまして絶賛されました。新聞にも載りましたし将来嘱望されるという評価も出ました。私は紐を解きましてどんな俳句を作っていたか調べました。私は絵を描くものですから、真夏に和布刈の上に三脚を立ててかんかん照りの中絵を描くのですが、暑くてたまんない。そのときにふと浮かんだのが「パレットのどこかに緑の風ひそむ」冬は冬で「寒月光紙面にすり込む輪転機」あるいは「クレーンの上がりぱなし寒夜の星掴み」とかですね、あるいは「学園にゆださがしあぐねて鵙されり」これは北九大のときに作った俳句です。
 何千句と作りましたけれど、こうした俳句は記憶の中に残っているのは学生時代幸せだったなと思いました。
 そして私はこともあろうに大学8年かかりました。大学の3年生のときに結核になりました。皆さんもそうですが、肺は上葉・中葉・下葉とあるんだそうです。そして両方に3つずつあって、その右の上葉と中葉に卵形の空洞が開きまして、2度、1度から10度まであるのですが2度、個室入りです。もうまもなく死ぬという状況までいきまして、それはアルバイトのしすぎと睡眠不足と栄養を取らなかったということでそうなったのです。その傍らに私は、今は総会屋というのは不法になっていますが、その当時は法律もできておりませんで、私は総会屋さんの秘書になりまして経営分析を大学の3年からし始めたわけです。1200社持っておりました大体300社くらい、同系の企業、同系の資産、同系の従業員、そうしたことで経営分析を手回しの計算機でしまして億単位、何十億、なん百約億という数字を学生時代のときに扱うことができました。
 これを3年近くやりました。それで数字が怖くなくなりました。これが後、西南女学院に招かれて経理を預かる。私は前半は18年教務、学生、就職を担当しました。後半はほとんど法人本部の中枢におりました。そして大学、今の西南女学院大学は私が企画立案、文部省通い、厚生省通いをして作った大学です。
 そのときに私は、北九州大学の同級生にずいぶんお世話になりました。それは北九州の幹部にたくさんなっておりましたので、ありとあらゆる知恵をいただいて、今日なったわけであります。
じゃあなぜキリスト教なのか、私は、当時はもうあそこの大学に行ったら、大学は通らんげなという学校にいきまいた。私は、常盤高等学校の出身でございます。そのころは特進というのが始めてできまして、私は、小学校から中学校まで学校を7回転校しました。 東京、岩手県の釜石、北海道、札幌、富良野、倉本聡さんの富良野村、あそこに5年おりました。
 そういう風に転校しましたのでなかなか進路についていけない。大変でした、教科書が違う言葉が違う、そして内容が違う、そして必ずいじめっ子がいます。これには本当に苦労しました。岩手県に行ったら言葉が全然わからなかったです。1年も居ませんでしたけど、とうとうわからないまま北海道へ行ったのです。母は泣いておりました。親戚はみな福岡県に居ましたから。帰りたい帰りたいといつも言っていました。その頃もう子供は4人いましたから、母は大変だったと思います。私はそういうことでキリスト教は西南女学院の宣教師につきまして、これは大学にいかなければならないと死に物狂いで勉強したわけです。   
 私に英語を教えてくださった方は、後にリーダーズダイジェストという本がありまして、そこの社長になられました。藤井さんとおっしゃいます。その先生に3年間みっちりたたきこまれました。そして後に、英語を習うつもりが聖書を学び、聖書を学ぶつもりが、クリスチャンになり、そしてYMCAの学生会に引っ張っていかれたわけです。
 その頃に私は、全国的にもキリスト教の学生連盟の役員しておりましたから、当時の福岡県知事の杉本勝次さんという方がおいでになりまして、後に久留米市長をされました。この方の引きがありまして西南女学院にいったということがきっかけでございます。
 私は大学時代結核になる前は、栗重先生というゼミに入りまして経営経済、そして結核から帰りまして商品学の塩田先生というゼミに入りました。従いまして私の北九州大学の卒論は商品学の卒論でございまして、題は「包装紙における購買力の促進ということの考察」をしました。それで昔「ユースコンパニオン」という英語の雑誌がありまして、そこに全国に包装紙を送ってほしいというふうに手紙通信を送りましたらダンボール3〜4杯集まりまして、母が困ったことがあります。
もともと包装紙というのは平安の時代から始まったといわれています。私どもが知っているのはフジジン醤油とかスモカの歯磨とか昔ございましたね。ああいうのがコマーシャルあるいは包装紙となって使われたのです。
 私たちの学生時代は井筒屋さんも玉屋さんも、まだきらびやかな包装紙を使われておりませんでした。それが銀になり金になりそしてデザイナーが入って井筒屋の包装紙、あるいは井筒屋の手提げ袋を持っていればあの方は高級な人だわと思われるデザインが出てきたのです。
 そういう研究を私は北九大のときにしたわけで400字詰め85枚書きました。ナンバー1です。
 そうしたことから、学生生活と病気ベッドで二年、大小は8ヶ月。ベッドの上でしました。だから私は家内に後になって結婚を申し込むときそのこと、言おうか言うまいか非常に苦労したこと覚えています。なんでもないことでございますが。
 村上龍の本を読んでいますと、こういうことが書いてありました。「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがある。ただ希望だけがない。」なるほどな、少子化、人間関係の希薄化、精神性の貧弱化、貧困化。これがどんどん進んでそして国の将来も危ぶまれているような今は時代です。今は教育改革をどこでもが言うようになりました、そして至上主義経済的なことにもはまりまして合理性を効率性、今の政治がそうであります。コスト削減。とにかく即効性に重点を置いて歩き始めている訳です。
 しかし、子供に向けてあるいは幼稚園から大学までの教育に向けての教育のあり方があまり考えられていない。ゆとり教育やりましたけど失敗しました。そして今ねじを逆にひねって一生懸命まわそうとしていますがなかなかうまくいっておりません。
西南女学院は、他校と違う点は皆様のお手元にも今日聖書をお届けしていますけれど、これは聖書は旧約聖書と詩編と新約聖書が一緒になって黒いこんな厚い聖書なんですね。今皆様のお手元にお届けしているのは新約聖書だけ。新約聖書だけ。それで充分だと。お読みになっていただくと、いろんな格言が出ておりますが、「小事に不忠なる物は、大事にも不忠である、小事に忠なる物は、大事にも忠である」昔のおじいちゃんおばあちゃん、お母さんお父さんが言いました。ほらそんな小さなことと思って疎かにしないの。ちゃんとやんなさい。と言われましたね。これは本当にまさに聖書で言っている言葉なのです。
 そのことで人格形成を西南女学院は、まず掲げている。そして一人ひとりを大切にする教育を掲げているわけであります。そして統合学力教育を取り入れて今やっております。
そして国際化教育これを盛んに実行しております。英語は北九州でナンバー1。西南女学院は、中高はナンバー1、福岡県下でもベスト3に入ります。英語教育だけで見れば。 英語偏差値70以上の生徒が4〜5人います。そして皆さんのお手元に公立高等学校と私立高等学校の偏差値の表これは今年の表ですが、お手元にあると思いますけれど、それを見ていただけると西南女学院の学力、実力がどういう位置にあるか、わかります。

2  西南女学院はあまり宣伝いたしません。広告もしません。静かにしておりますけれど、そういうことをしていたのではだめだということで。わたしが4月から校長も兼任するようになりましたので、戦略を変えました。 広報戦略は教育機関の一環とみなすということをしまして、今盛んにそれを言い始めております。
 昨年までは偏差値が、そういう偏差値ではありませんでしたけれど、今年から特進と進学を切り離してしましたら、ドンと上がりまして驚くような、教員も驚いたいう実力がそこでわかります。県立高校では北九州で東筑と八幡と小倉と戸畑がちょっと引っかかりますかね、私立は明治と九国大の特進、三番目がうちだということになっております。 しかし西南女学院、静かなものですから女性だけですから、人気がございません。
 しかし私たちは世界に向かって自分の将来を磨いていく。そして生徒の育成に全力を、それは感恩奉仕という西南女学院の建学の精神。これは恵み深い神様に感謝し、すべての人に感謝し仕える人になりましょう。ということであります。
 教育の基盤はキリスト教に基づきまして、人の痛みがわかるやさしい心だとか、感動し共鳴する心だとか、謙虚で柔和な心であるとか、しなやかな自由な心であるとか、そして互いに分かち合う心を養うということであります。
 そこに私は、「女子教育と共に半世紀〜聖書に示され、導かれ」という題をつけて皆さんのお手元にお届けしました。
 西南女学院は現在88年の歴史を刻みました。そしてこれはアメリカの南部バプテスト、これはプロテスタントの教派の一つです。ここから浄財がまいりまして、西南学院大学が男子校、西南女学院が女子校として建てられたのです。
 もちろん当時はアメリカの宣教師から来たお金ですから、キリスト教に導こうという願いがございましたけれど、なかなか日本人はそのように動きません。 アメリカ人が思うようにいかない。これが日本人のしたたかさなのか、八百万を信じている信仰なのか、もうほとほと困ってしまった。それであきれ果てて、日本に居る宣教師は今ほとんど引き上げてしまいました。
 今はその分は中国、韓国にいっています。日本の人口の1パーセントがクリスチャンといわれておりますけれど、今はもっと下がっているだろうと思います。
 女子教育の始まりということで、そこに書きましたけれど、これを見ていただければわかることで、最後のほうに、キリスト教の学校が97校今あると、こういう表がございます。日本地図の中に一番最後ですが、これをごらんいただきますと九州地区に12法人、キリスト教の学校があるということがわかります。非常に多いのです。 これは何とか順調に今いっている学校でございます。 残念ながら京都の平安女学院が立命館大学に合併吸収されましたがそれ以外九州の学校は持ちこたえられている。地域に信頼されている学校としてなり立っている現状でございます。
 どういう系列でできたというのは、国公立あわせまして、その2のところに書いてありますが、宣教師がおいでになってその働きによっていろんな形でできた学校がほとんどである。西南女学院は1922年大正11年にできておりますけれど、そしてこの男女の21世紀を生きる。21世紀は女性の時代だと言われておりますが、従いまして女性が力をつけてくる時代でもあります。もうすでに力がついていて、どうも男性は危なっかしい時代にはいったのではないか。
 その21世紀を生きるためには、ちゃんとした教育を受けていなければならない。教育を受けなければならないというのは人間だけでありまして、これを怠ると人間にならない、人にならない。
 現在は少子化の時代で、どこの学校も苦労しておりますけれど、しかし今から15年先までこの減少は続くといわれております。だからどこの大学でも今寄付集めに一生懸命なのですが、こういう経済状況下ですからお金は集まりません。結局は自助努力で考えていかなければならない訳であります。
 特に男女の共同参画事業、あるいは社会というのが言い始められまして1999年にこういうことが始まりましてやっておりますが、どうもうまくいっていない。経営難の解消にはなっていない。
 そして女子、中・高・大学に至るまで学部、学科の編成が迫られて、そして女子高として生き残るための目的や役割や、いい面が根底から見直されて、今揺らぎつつあるのです。
 稲盛和夫さんは、この前テレビの中でこういうことを言われていました。
 「理念を曲げてでも事を運ぶということはよしたほうがいい。理念をまげて事を運ぶと、また次の年にその曲げた理念をまた曲げて事を運ぶと。そうすると何年か後に理念はなくなってしまう。そういうことはやるべきではない、一度かがかげた理念は絶対に崩してはいけない。もし崩すのだったら、そういう会社や学校はつぶれたほうがいい。」ということをテレビでおっしゃっていてその言葉に私は感動したわけです。
 で、今は21世紀は女性の時代と申し上げましたけれど、まさに女性の能力の開発、開花は叫ばれている時代です。
 なぜか、それは、そのつけております最後のほうに、また、それがあると思いますけれど、こういう理論をしたのです、女子教育のメリット。これをご覧いただきますと、最新の研究としてわかってきたことが、この女性と男性の相違、というのがございまして、これによってどう教育をするかということの表でございます。
 女性は協力を取り入れた学習を好むのです。そしてリスクの高い行動は避ける傾向にありますけれど、協力協調してやる。そして自己能力に対する評価が非常に控え目である。力があるのに私はこの程度なんです。と言うこの控えめ。そして争いごとを避けようとしますし、好まない。非常にコミュニケーション能力が高い。だから言語能力が高い。だから今外国留学する方は女性が圧倒的に多いですね日本では。男性は行かない。行きますと就職難に陥るし、人生の設計ができない。したがってアメリカに行くことすら嫌がる。女性はどんどん行く。これが違う。      
 男性は競争取りいれた学習を好むのです。リスクの高い行動を評価する傾向がある。自己能力の評価が高い。7くらいしか持ってなくても私は10ありますとこういいます。争いは仕方ないかと受容する傾向にあります。それでいて男性は非常に独立心旺盛ですから、コミュニケーションを図ることなく、どんどん進むのです。そして空間認知力が高い。
 西南女学院の高等学校の生徒を見ていますと、非常に理科系に行く生徒が多いです。これは理科系にお父様、お母様が就職がいいから理科系がいいわよと、言うこともあるように思いますが、本当に勉強しますね。
 福岡西南の状況も私は知っていますが、あそこも九大現役で60人くらい通りますし、東大、京大も毎年5人6人通りますね。定員のもう7割近くは国公立いってしまう学校ですが、それでも入学試験をしますと圧倒的に女子中学校から来た女子の成績は抜群だそうです。だから男性と女性のバランスを取った定員をしていかないといけないので、もう女性を落とさなければならない。それが困るといっていました。
 ところが男性は高校2年生の頭位から頭角を現して、やはりやるのです。これが違い。しかし卒業するとき総代はやはり女性がというのが多い。これは西南女学院でもそういう傾向はあるように思えます。
 この前体育祭をいたしましたトラック10台、4トントラックでグランドのへこんだところに砂を入れました。これは一日ですまないだろうと思いました。女生徒が一日でそれをならしたのです。ならした後に塩化カリウム、滑り止めの雪を溶かすあれを10袋位グランドにまきまして竹箒でちゃんと体育祭ができるようにしたのです。 やるもんだなと思いました。やらせればやるのです。
 男性はあんなのない、テレンプランして、しゃべくりまわって、明日があるさでやるんだろう、違うのです意気込みが、私はこれに感動して、体育祭は成功だと思いました。
 そして1年生、2年生を叱咤激励し3年生がリーダー性を発揮してやるのです。おもしろいです今の西南女学院の高等学校の3年生は、落ちこぼれは1人もいないです。
 優秀これはというのも目立たない。非常に協調協力性があって皆がリーダー性があるのです。したがって1年生、2年生にはすごい子がいますが、歯学部、医学部を目指す。それでもなかなか協調協力に行かないのです。そういうのを引っ張っていって、させるわけです。
 今、北九州は市内にあります中学校、高等学校はほとんど共学化しました。西南女学院だけが女子校です。理事会の中でも男女共学にしたらどうかという声があります。 これはいつかより戻しが来ると思います、すでにアメリカがそうなっています。女子は女子、男子は男子、ヒラリー・クリントンさんもそういう経験があります。
 女子と男子にしますと、たとえば西南学院が男女共学にしましたとき、高等学校ですよ、男子が便所掃除をして、女子が後ろに立ってじっと見ていた、男子がするからいいわ、みんな男性にやらせたらいいわ。男性は喜んでするのです。だけどもそれではだめなのです。やはり、女性がリーダー性を持ってやっていく教育をしていかなければならないということを私たちは頭に入れてやっていかなければならない。
 それともう一つ、キリスト教の学校が今97法人あると申しましたけれど、どこもクリスチャンの先生が足らなくて困っているのです。これは、もう西南学院も西南女学院も梅光女学院も九州にあります活水もほとんどそうです。クリスチャンの先生が大体2割多くて3割、7割がノンクリスチャンの先生、だからクリスチャンの先生とノンクリスチャンの先生が祈りあい学びあって共にキリスト教の学校として建学の精神の慈しみと生徒の教育活動を支えているということです。
 だから私どもはクリスチャンの大学の卒業生がいれば何とか引っ張りたいと思っています。今、西南女学院には北九州大学の出身がたくさんいます。英語の先生もそうです事務の法人あるいは大学の課長職は、ほとんどといっていい位北九州大学です。優秀です。こともあろうに男性は私が引っ張った。とても優秀です。そして西南女学院の卒業生を嫁をもらった人が多いのです。だからお前たちは働かないでどこへ行っていたかとよくいうのです。
 そういう中で教育が行われているのです。キリスト教学校の建学の精神の中には必ずこの人格教育とか人間教育という言葉が出て来ます。
 東京女子大学の初代学長、これ7番のキリスト教女子教育とはというところですが、新渡戸稲造、この方は有名な方です。女子教育を説いた第一人者でございますけれど、この方のおっしゃったことは21世紀の女子教育の原点といえるのではないかと思います。
 「全ての人間は、女性も子供も障害者も神によって創造され、限りなく尊いのであり、女性は決して子供を生む道具ではなく、人格として男性と同様育成されるべきことである。」と新渡戸さんは言っています。 また「人格のないところに責任は生じない」ともいっています。
 キリスト教学校における教育理念のもっとも大切なところは、社会において責任を全うすることのできる人材を、育成することである。
 男性も女性も人格的に平等であるんだ。そして自信を持って女性も社会的責任を果たす役目を持っているのだ。これが全人的な教育のあり方だと思います。
 そして8番目に、今の教育に欠けているもの、といいまして、藤原雅彦さん、この方は「国家の品格」とお書きになりました方です。この方のお母様は藤原ていさん「星は流れる」という本があります。あの藤原ていさんの本を読むと藤原雅彦さんが2才のときに、中国から引き上げてきて、死ぬか生きるか、つれてこられた子供が今こういうことなっているのです。食べるものがない、着るものがない、もう無蓋貨車に乗って無蓋貨車から捨てられようとしたこの子供が今、藤原雅彦さん。それから60年たつとこういう軌跡もあるのですね。この方が著書の「祖国とは国語」という本の中で、こういうことを書いておられます。
 6ページの頭ですが「他人に迷惑になることをしてはいけない」と最近の若者は思っていてても、それはよいのだが、これを道徳基準のように思っている。しかし家庭でも学校でも、そのように教えているのか、多くの若者は次のように解釈している節がある。「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」と。例として、公衆の面前で、電車の中でお化粧をする。携帯電話でメールを送る。授業中に食べものを食べる。私語をする。そして親に内緒で援助交際でお金を得る。誰の迷惑にもかからないからいいのではないか、これでいいんだろうかと藤原さんはおっしゃっています。そして「国家の品格」の中で国語教育の充実についておっしゃっているのです。
 もう一つは我慢力の養成をしなければならない。今の子供はほんとに我慢がありません、これはお母さんの影響もあると思います。何でも買ってもらえる。私たちの頃は父親、母親は、なぜそれが必要なのか、今必要なのか、それはどういう風に使うのかと説明がつかないとなかなか買ってもらえなかった。今はすぐ買ってもらえる。だから我慢力の養成をしないと日本は大変なことになるのではないか。
 それからノートルダム清心学園の理事長の渡辺和子先生の「忘れかけていた大切なこと」という著書の中で「人格というのは、主体性を持った人間という意味を持っている。今、親は子供の言いなりになって、したいことをさせ、したくないことをさせないでいる。このことは必ずしも人間らしい人間の姿ではないのではないか。なぜなら人間らしさとは、主体性を持って生きることなのだからである。」とある。そうなのです。
 自由とは「自らに由る」と書きます。
 自分で決める、そして人に迷惑をかけるのか、かからないのか。それによってしなければならない。飲酒運転なんかは自由なのですけれど、本当にコントロールできていないですね。
 したがって昔は心を育てる教育を大切にしてきたと思うのです。これは向こう三軒、両隣のおじいちゃん、おばあちゃんから、ずいぶん厳しくしかられました。そのことが今の子供たちにはない。だから、そういうことを西南女学院ではやらなければならない。
 そして、今の学生は三無学生です。 読めない。書けない。話せない。それは携帯あるいはパソコンの普及もあるかもしれけれど、長い文章が書けない、大学院生が論文を書けない。 特に小中高生にその傾向がはなはだしい。したがって文科省も一般社会も企業も非常に将来を心配している。
 今の子供には愛校心がないですね。愛校心があれば、学校をあるいは母校をいつまでも心におくことができる。それができない。そのことが、読み・書き・そろばんと昔いいましたが、読み・書き・話せないが現状です。
 私は、43年近く大学におりました。教務・学生・就職におりましたけれど、大学生や短大生が手をつないで、教務課、就職課に来ます。そして「先生、この人がレポート出したいといっているのですが」「あなたじゃないでしょ。この人でしょ。あなた言いなさい」というのですね。そしたらもじもじと非常に多い。トイレに行くときも必ず手をつないでいく。不思議でたまらない。これが今の現実なのです。
 昨日、人権同和の会議がリーセントホテルでありました。私は、福岡連の会長をしているものですからそこに挨拶に行きました。公立の先生とか皆一緒に話すのです。公立の高校では体操服に着替えるときは、同じクラスで男子も女子も一緒にするそうです。恥も何もない。堂々としている。あちゃーと思いたい。だけど私どもの学校はそれはしませんし、教員に厳しく、簡単に教室に授業以外はいることあいならんと。言っています。ただ、帰った後に巡回して、ちゃんと体操服をたたんで机の上において帰っているかとか、机が乱れていないかとか、ちゃんと縦に並んでいるかとか見るようにしています。
 これがやはり今の子供たちには、なかなかできていない。
 だから今、戦後60年で、親が先生が教えられないもの。できていないもの【勇気・誠実・正義感・慈愛・忍耐・礼節・悪・卑怯】ですね、こうしたことが聖書にはそこここに出てきますので、これを生徒には話している。これが戦後60年たって本当に消えかけている気がします。少なくてもこういうことは、日本人の行動基準にあったと思います。
 そして自殺が非常に3万人超えているのが3年か4年連続でしょう。50台が多いと、このごろは青少年も増えています。 不登校が4千人です。福岡県で不登校が、考えられない。家族愛、郷土愛、人類愛、祖国愛も消えうせかけている。
3  生徒に学生に言っていることは、人生は自分の手でしか開かない。自分の手でしか開かない、人の手では開けてもらえない。だから昔の人の格言に「天は自ら助くる者を助く」とあるのです。それすら知らない今の子供は。このことを私たちは充分に教えていかなければならない。
 よその公立中学校から西南女学院の高校に入った生徒が驚くことは、毎朝生徒が祈ります。そのときに、病気のお友達のことあるいはご家庭のこと、おじいちゃん、おばあちゃんのことを祈ります。そして社会の貧困なこと。いろんなこと祈ります。 他の中学校から来た生徒がびっくりします。面接をするといいます。人のことを思って思いやりのあるお友達がたくさんいる。びっくりしました。とそれは聖書にでてくる「愛」ということであります。
 それともう一つ大事なことは、他人と比べないということです。他人と比べたらいけない。そしてたえず、心の雑草を抜きましょう。
 私たちはもう心に雑草が生えて、生えて、抜き難くなっていますけれど。 短大生、大学生、中高学生はまだピュアです。だから今のうちに心の雑草を洗い流し、抜き去るということをしていかなければいけないといいます。他人と絶対比べない自分を見ている限り自分を見失うことはない。
 そして今できることに専念しなさい。あれもこれもやってもだめだ。昔は多芸多才とありました。これは言ってみれば、底がありませんし、何もがプロ級にできるものではない。それを器用貧乏といいました。今ではマルチ人間といいます。
 しかしこれは長続きしませんし、飽きられるのです。だけど私たち恥を書くことで、人生いろんな物を拾い集めて、糧にすることができます。だからどうか私たちは目の前の子供たちに対していけないことはいけない、いいことはいい。そしてそのことは私、北九州大学に在学したときに学んだと思います。ひとつは私は、靴が買えないで下駄で学校に登校しました。
 そして教室にガタンガタンと下駄で行きますと、先生からこっぴどく怒られて、「紳士たるものはそれでいいのか」としかられ、「スタンドアップ、コーナー」といわれて「角に立っておけ。」私は、そうだなと思いました。
 厳しい北九州大学で思い出すのは、今田勇次先生か修二先生、後に九州大学の英文科の先生になられましたけど、この先生、北九大は外専といっていましたから、英語に非常に強い学校でした。私、商学部でしたけど商学部の一般教育の三教科の英語は全部、外専の教授がおいでになるわけです。 そして読まされるのです。サマセットモームという小説があった。少年が水辺に向かって石蹴りをして投げます。水にいくつ輪ができるか。そうするとその中に立ってる葦に止まっていたヨシキリがわーと飛び立つ。それでいいのです訳は。ところがそれでは50点しかもらえない。書いてないことを読まないとだめだ、でなんと書くか、葦に止まったヨシキリが飛び立つと葦はどうなったか、揺れたんじゃないか、揺れたら水はどうなるか、そこを訳せというのです。無茶な先生もおられたもんだなと思いました。だけど今思いますとそれが教育だと私は思ったのです。物を前後左右上下から見る。それだと思いました。
 そういうことがそこここにありました。        
 私は、二外はロシアを語取りました。フランス語80人、中国語60人、ドイツ語120人、ロシア語6人。サボれない。代返をしてもらうわけにはいかない。苦闘しました。サボれないのですもう6人しかいない。家庭教師ついているようなもの。植村先生とおっしゃいました非常にすごい先生。
 そしてロシアの大使館に行ってロシアの中学生の本を6人分もらってきて、それを夏休み中に全部訳してもってこいと。だから私たち6人図書館に集まって、お前は1ページから何ページまで分けて、そしてより集め「全部訳同じだったな」といわれ赤恥書いたことあります。前期後期試験もたった2題。1題「ヤ・チャイカ」と書いてある。50点。後はなんなん。その一題目が解けないとどうにもならない。誰もわかりませんでした。「ヤ・チャイカ」「ヤ」というのは「私」、「チャイカ」がわからないのです。私はなんだろう。「かもめ」なのです。「ヤ・チャイカ」「私はかもめ」それはロシアの宇宙女性飛行士が宇宙にいったときに言った言葉なのです。
 ほんとに全員できなくて困ったことがあります。だけどその先生は全員優を下さってみんないいところに就職しました。 マスコミが多ございました。ロシア語ができると必ずとりましたね。 毎日も朝日も共同通信も貿易会社もほとんど一流企業にとおりましたね。
 それほど今からは中国語とロシア語だという事をいつも先生は言っておられました。それは先見性があったのだと。その頃ロシア語は東京外大と京都外大と早稲田、北九大と全国で五百何十校ある大学のうちでで4つしかなかった。引く手あまただった。五木寛之もロシア語です早稲田の。何人かいますね作家の中にもそういう人が。だけど苦労はしましたけれどよかったなと思いました。
 さてつたない話を延々としてまいりましたけど。本当に私の話にお付き合いいただきありがとうございました。ご出席いただきました皆様の上に神様の祝福が豊かにありますようにと、私も皆様方のこと覚えて祈りにあわせてまいりたいと思います。いよいよ寒くなりますどうぞご健勝であられますように。 中高生がおりましたら、ぜひ西南女学院に学ばせていただきたい、あるいは大学生は北九州市立大学、あるいは西南女学院に行くようにご指導いただきたいと思います。
 本当にありがとうございました。これで私の話を閉じさせていただきたいと思います。