北九州市立大学同窓会

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26専中 50年ぶりのクラス会

  21.10.25の同窓会総会に合わせて、クラス会を計画、近隣10名に案内をするも逝去、所在不明、病等で結局は、次の4名が集まった。
 片本惟之(筑紫野、元福岡県庁、旧豊津中学、相撲部)大久保太一郎(山口、元朝日新聞、旧小倉中学、ラグビー部)中山健一(小倉南、元轄附阯q業、旧八幡中学、相撲部)長野達之(田川郡大任町、元福岡県庁、旧田川中学、バドミントン部)
 片本と中山は2年の時、大阪で開催されたインカレ(相撲)に出場(主将はS25・専中、花畑昭一郎)1回戦は日本獣医に勝つも、2回戦は日本大学に敗れる。大久保はラグビー部で活躍、長
野はバドミントン部を創立、元OB会長でもある。
 外専もS25に大学となり、私たちも、S26旧専門学校3回生として卒業する者と、あと2年間、大学に残り、S28大学1回生として卒業する者とに別れたのである。
(貧しくとも良き時)
 その頃は日本は米軍の占領下にあり、小倉は基地の街、学校周辺にはバラックで急造の売春宿が集落をなし、基地特有の頽廃、喧騒の中に、何ともいえない活力がみなぎり世相も、また混沌として過渡期であった。
 学校も旧陸軍工兵隊のオンボロ校舎、それだけに伝統校には見られない、何物にも立ち向かっていこうという若さ、貧しく苦しいながらも教職員・学生が一体となって新設された大学を立派に育てあげていこうという創造への熱気が、大島直治学長を中心に一丸となって燃えたっていた。貧弱な施設、きびしい食糧事情にもめげず、旺盛な知識欲は教室で私語する者など全くない状況であった。また、親からの仕送りなしで、炭坑、夜警、米軍の通訳、雑役、輪タク、家庭教師などと苦学生も多かったが、暗いイメージは全くなく、明るく活力に満ちあふれていた。
 80才の今日、僅か3年の学生生活だが、良き教官、先輩、後輩に恵まれ、共に喜び、涙し、汗を流し、何事にも、ためらうことなく、ぶち当っていった無欲な青春の一駒、小倉外専で学んだ、多くのことに感謝の気持でいっぱいである。
 お互いに80?81才、余命を考え、来年もまた大学総会で逢うことを誓いあう。
 またバドミントン部の諸君(S29・米英、野原種明、元体育会OB連合会長)(S34・米英、淵ふち上英紀、福岡県バドミントン協会副会長)(S34・商、浜?正俊)(S46・国文、西田英子)(H2・経営、和田将洋)とも旧交を暖める。
 思い出とともに湧きいづる同窓の不思議な連帯感!爽やかな、清々しい思いで、老骨に鞭打って、また逢う日を楽しみながら小倉をあとにする。

長野達之(S26・専中)

(エピソード)
中山健一
 母子家庭…大変苦労している。八幡から自転車or徒歩で通学、八幡中学を卆業したあと、一年間、会社に勤め学資金を貯める。入学後も小倉の工場で夜警をし、夏休みや春休みには輪タクにも乗っていた。足腰、手と鍛えられ、相撲部に…!(3年間完全に自力で学資金を稼ぐ)
 黒崎窯業に入社…原料(泥や土、石)を中国から買い付けのため、毎年、中国に6ケ月位は常駐する。
 在学中の勉強不足…死に物狂いに…会話をマスター、神戸外大卆が、彼のあと入社…負けてはいけないと猛勉強…おかげで中国語会話には堪能!総務課長で退職…。リタイアした後も、北九大後輩の個人の商売の、材料を仕入れのため、随時、通訳として中国へ行っていた。

大久保太一郎
 小倉市内富野から通学…父が朝日新聞社員に拘らず、アルバイトで、夏休みには輪タクや西鉄電車のキップ売り…後に小倉競輪場の旗振り(競輪場のアルバイトの中で一番、収入が良かった)。
 身体は小さいが、ラグビーで活躍…朝日新聞記者、整理担当を歩き整理部室長で退職。

片本惟之
 行橋市長井の農業と漁業の次男、子供のころから舟に乗り、網引きもし身体も頑丈で、足、腰、腕もしっかり、日豊線で通学していたが、中津市から通学していた相撲部先輩(主将)の25専中の花畑昭一郎氏から口説かれ相撲部に…。
 福岡県庁…長野と一緒に北九大同窓会県庁支部を発足し、58才本庁課長で退職。
 大学開学40周年記念総会で、感謝状を!

長野達之
 3年のとき、小倉競輪場が開設されたとき、アルバイト(監視係で場内を巡視する)のため、北斗寮(通称、たぬき寮)に入寮す。
 演劇部、新聞部そして最後はバドミントン部を創立す。
 福岡県庁…11ケ所を転勤し、本庁課長、県立大学事務局長で退職、58才
 ?福岡県造園業協会専務理事(5年)そのあと、造園会社に勤務。
 70才でムラの区長、公民館長、相談役と年令相応に…!
 県庁支部、田川支部の創立に努める。