北九州市立大学同窓会

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支部組織

熊本支部

小倉と熊本

 『豊前街道』は小倉と熊本を結ぶ主要ルート。小倉が熊本支部にとって“第二のふるさと”であるように、 忠興ただおき ・忠利 ただとし 2 代30 年にわたる藩政を仕切った細川家にとっても“第二のふるさと”であった。

 唐造りの小倉城を築き、武家地や町屋を造成した。宿場町や往還の整備も細川藩政の遺産である。さらに、領民の活気と近世以降の商都小倉の繁栄を促した祇園祭りも、知恵者・忠興らしい大いなる遺産ではないか。

 その殷賑のさなか、将軍家光の遠国支配のシナリオが現実となる。寛永9 (1632 )年9 月6 日、九州の雄・肥後の加藤忠広が改易、後任には外様大名の小倉藩主・細川忠利。39 万石から54 万石、破格の転封てんぽうである(細川の跡は譜代の小笠原忠真ただざねが襲う)。

同年12 月6 日、忠利の行列が小倉を出発。別れを惜しむ領民が沿道を埋め尽くした。熊本城下までのルートは豊前街道山鹿やまが通り。飯塚、冷水峠を経て、山家やまえから南下する42 里の道程であり、島津氏も多用した参勤路である。

 一行は、早くも3 日目の12 月8 日、肥後国南関入り。 その夜は山鹿湯町泊。9 日未明、山鹿を発ち、熊本城に入っている。細川氏にとって肥後国最初の、ある意味では(肥後は最難治国と言われていた)、非常に不安な一夜を山鹿で迎えたことになるが、後年、山鹿に御殿湯をつくり、宮本武蔵(寛永17 年、細川家の客分待遇を得て熊本入国)を招くなど、ここを別荘のように使っている。 豊前街道が単に小倉と熊本を結ぶ主要道路であったというだけでなく、あの熊本城入り前夜が細川氏をして小倉と熊本との深い因縁に思いを巡らしめる契機 きっかけとなったか らに違いない。以来、明治2 年の版籍奉還までの二百三十八年間、細川氏の肥後統治がつづいた。

 もう一つ、小倉と熊本との意外な因縁を…。西南の役の緒戦でおこった小倉歩兵十四聯隊(聯隊長・乃木希典少佐)の『軍旗紛失事件』である。あと17 粁たらずで熊本城に達しようという豊前街道向坂むこうざかがその舞台。

 明治10 (1877 )年2 月22 日、熊本鎮台救援に南下を急ぐ乃木軍勢は、薩軍側のまさかの迎撃に敗れ、軍旗まで奪われる。戦い済んで(9 月24 日)、政府は軍旗の行方を追い続け、城山しろやま陥落後ちょうど13 カ月目の翌11 年10 月 24 日、再び軍旗は政府の手に戻る。だが、皮肉にもである。この軍旗発見の三日前、小倉十四聯隊に真新しい軍旗が再下賜されていたのだ。1 聯隊に2 旒りゅうの軍旗、空前 絶後のこの史実を知る人は少なく、十四聯隊の兵士たちさえも、古い軍旗は旗手河原崎少尉とともに埋められた−−と教えられ、そう信じきっていたという。

南北に走る豊前街道は東西に流れる菊池川と交わる。 この菊池川流域は装飾古墳の宝庫といわれ、全国に分布 する装飾古墳400 余のうち、120 余基が集中している。

 死者の奥津城を彩る装飾古墳は、近世の眼鏡橋や石門とならんで熊本が誇る『石造文化財』である。

 ちなみに、北九州市役所の1 階に、市民情報コーナーがある。その壁面一杯に描かれた多賀谷伊徳の『舟と馬と太陽』の出自は、菊池川流域の弁慶ケ穴古墳。江上波夫の騎馬民族征服説を補強する古墳である。平成3 年秋、江上と同時に文化勲章を受章した画家福沢一郎も『魏志倭人伝』連作の過程で触発されることが多かった、そのチブサン古墳も近くにある。ちゃんとした画家なら、他人の絵の模倣は忌避するのに6 世紀の壁画を前にすると忽ちイノセントな芸術家に立ち戻るのだ。とはいえ、これら装飾古墳が絵画的あるいは美術史的な価値だけでなく、学術的にも第一級の文化財であることは勿論である。

 げに、小倉と熊本の間には、今も共感の遺伝子が流れているような気がしてならないのだ。

轟木 正斗